◎お互いが好意を持っている場合に贈り合う
出口王仁三郎が、プレゼントについて
述べている。
贈り主がプレゼントを上げようと思っていないのにねだるのは、霊がこもっていないのでいけないとする。
また贈り物を辞退するのは、功徳(お蔭)がなくなるといいながら、一方で贈り物をむやみにもらうのは危険だとも言っている。それをもらったばかりに思わぬ災難にあう場合があるという。
新品のプレゼントもさることながら、中古、古○、アンティークも当然気をつけねばならない。
せんじ詰めると、お互いが好意を持っている場合にプレゼントを贈り合う場合だけがよいと言っている。
只ほど高いものはないとか、金を集めるとは因縁カルマを集めるということだとかの、一見全体的には功利的発想から来るように見えるものの、更に深遠な法則が仄見える。
だがここでは、もともと自分に与えられた物だけが受けるべき贈り物であって、またもともと最も自分が大切に思うものだけが、渡すべき贈り物であるという考え方がある。つまり授受すべき心のこもった贈り物は最初から自分の一生に組み込まれているものであって、余計なものに手を出すべきではないということなのだろうと思う。
心を篭めるというのは、丹精こめるのだろうが、霊を篭めるとは、自分の分身を籠めることのように思う。
『霊と記念物
霊と云ふものは、篭めれば篭める程深くなるものである。私は茶碗を一つ捻るにも一々性念を篭めてやるのであるから、深く霊が入つて居る。
それ故、この器で毎日湯でも茶でも呑んで居ると、相応の理によつて、お蔭を頂けるのである。私が遣らうとも思はぬのに、呉れ呉れと云ふて貰つても、お蔭は少い。又遣ろうと思ふものを辞退するのもお蔭がなくなる。滅多に人から記念物を貰ふのもよくない事である。霊が反対して居ると、品物を貰ふたが為めに、とんだ災難を受ける事がある。生前お互が好意を持ちあうて居たものの記念物で無くては貰ふものでは無い。又自分が一番愛して居たものに一番霊が篭もるものであるから、昔は其一番愛して居たものを御神体として祭つたものである。但、心を篭めると云ふのと、霊を篭めると云ふのとは意味が違ふ。』
(水鏡_霊と記念物/出口王仁三郎から引用)