◎自殺を絶対的に罪だとするキリスト教とは違う
仏教者は、釈迦が弟子ヴァッカリの自殺を例外的に認めたケースがある。ラマ教のダライ・ラマも同様に例外的なケースで自殺を認めている。
『極限状態の中で、自殺は許される
しかしながら、自殺はなべて悪であるとは言い切れない。ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。
最近、私はある親しい友人、チベット人の友人と語り合った。話題はチベット動乱の後、私がインドへ亡命した一九五九年以後のチベットのことに及んだ。彼には長く親しんできたラマ僧の友がいた。
ひじょうな大食漢であったそのラマ僧は、とてつもなく肥満していたそうなのだが、毎日、少なくとも五〇個もモモ(皮の分厚い、肉と野菜のチベット餃子)を食べ、一キロもの肉 を食べ、巨大なボウル一杯のヨーグルトと一リットルものミルクを飲むような食生活をして いたという。それでいて、彼は宗教的にはすばらしく高い境地にまで到達していたらしい。 大量消費と宗教的高潔さが同居する不思議にして稀な例だと言える。
その彼が、一九六〇年代になってからのことだが、中国当局に逮捕された。反革命の容疑で人民裁判が行なわれた。即決裁判によって、彼は、翌日公衆の見守る中での鞭打ちの刑を言い渡された。ラマの高僧へ恥辱を与えることが目的であったとしか考えようがない。
そこでどうなったか。
その夜、彼は瞑想に入り、自らの魂を肉体から切り離した。死んだのだ。いわれない恥辱を耐え忍ぶより、彼は《その生命〉を、その瞬間に自ら断ったわけである。このような場合、こうした《死》を自ら選び取ることは許される。
彼が、もしその夜、このようにして自らの命を断たなかったとしたらどうだったか。いずれにしても、彼は群衆の輪の中にひざまずかされ、鞭打たれ、あるいは拷問され、遠からず死なねばならなかっただろう。それならば、瞑想の中で死ぬほうがましである。なぜならば、彼が一日生きながらえればその分だけ、数日生きながらえればより多く、他者に悪しきカルマを積ませることになっただろう。鞭打つ刑吏や拷問者は、彼を苛むことで悪しきカルマを蓄積することになったわけだから。
他者に悪しきカルマをもたらすことを避けるためには、こうした自殺は許される。瞑想による死は自殺ではないと言う人がいるかもしれない。だが、仏教徒として見れば、呪いによって人を祈り殺すのが殺人であるのと同じように、瞑想による死もまた自殺である。
(中略)
人を殺すに刃物や銃器などの武器を使おうと、マントラ(真言。祈りの呪文)の力に頼ろうと、その結末は、まったく同じだと言わねばならない。死である。他者の死。自殺するに、ロープを用いるか、毒薬をあおるか、瞑想の中での自己の肉体との決別を選択するか、それは手段の違いにすぎない。結果は死である。自己の死。
(中略)
だが、よく肝に銘じておくべきだ。仏教徒にとっても、自殺は悪しきことである。極力、自殺は避けねばならない。ここで私が述べたことは、あるきわめて限定された極限状況の中で、例外的に自殺も否定されない場合があるということである。いかなる場合も、自殺を絶対的に罪だとするキリスト教との違いを覚えておけばそれでいい。
自殺ばかりではない。殺すことは、それが人間だけではなく、いかなる生命であろうとも殺生として禁じられている。生命の破壊は罪である。』
(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議/14世ダライ・ラマ/クレスト社P53~58から引用)
現代の人類は緩慢な自殺をしているようなものであるとは、生きる本質的な意義を見出せずにいながら、人並の生活を続けていくには激烈な生存競争を勝ち抜いていかなければならず、自ずとその生活は苦と感じられる人が多いからである。
最近の学校では、自分に合った仕事を捜させるわけだが、これが本来の自分らしい自分捜しにつながっているところがよい。その方法は冥想(瞑想)がベストだが、無私無欲をベースに本来の自分らしい自分を、思うことなく考えることなく求めていけば、いつか自分にふさわしいライフ・スタイルは見つかるだろう。
だが現代では、それではすまない。自分にふさわしいライフ・スタイルで生きるとは、いわば下方三チャクラ(ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ)で生きることであって、そんな人ばかり増えると最終的には世界全面核戦争に至り殺しあうようなことになりかねない。
よって、愛を踏まえた上方3チャクラ(アナハタ、ビシュダ、アジナー)で生きつつ、大悟覚醒(ニルヴァーナ)を目指さねばならない。
上方3チャクラで現代を生きるのは、胃をやられがちになる。他人を傷つけないような生き方をするのは当たり前だが、ダンテス・ダイジは、「自分を傷つけられるのはどうか?」と問われて、「自分を傷つけられるなどということは知ったことではない」と一刀両断した。
さはさりながら、現代において生きるために全身全霊をかけて生存競争に勝ち抜いていきながら無私・無欲・無用の用の冥想修行を続けていくには相当に骨折りが必要であるのも間違いない。
自殺は論外だが、この人生で大悟覚醒することを狙ってこの時代に生まれてきた人には、日々の30分の冥想もする余裕もなく暮らしている人も少なくないだろう。それでも頑張って少しでも冥想していこう。
それだけが、人類全体の自殺を回避する道なのだから。