◎絶対的孤独、そして神秘
(2017-08-19)
マタイによる福音書8章20節
『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』
人の子とはイエスのこと。枕するところ、つまり家を求めるというのは、帰る家がないことを感づいている人に起こる。
帰る家がないことは、道元も芭蕉も同じ。
道元の遺偈
『五十四年
第一天を照らす
箇の浡跳を打して(浡はさんずいでなく、足偏が正しい文字となっています)
大千を触破す
咦(いい)
渾身に覓(もと)むる無し
活きながらに黄泉に陥つ』
これの現代語訳
『五十四年の人生において、
天の最高位を知ることができた。
〔いまは、そこからもなんのこだわりもなく〕飛び跳ねて全世界を打ち破ってしまうのだ。
ああ
体全体、置き所に拘ることもない。
生きたまま黄泉の国に陥ちてゆくだけなのだから。』
(道元禅師全集第17巻/春秋社P271から引用)
身の置き所とは、枕する家である。
さらに芭蕉。
此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮
此の道にもどこにも行人などいない。絶対的な孤独・・・・・。
ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、
『帰る家がないからといって
家を求めてさ迷うには及ばない』と描く。
ノンデュアリティに生きるとは、その絶対的な孤独と寄る辺なさを生きることである。イエスであっても、ダンテスであっても、道元であっても、ことさらに、それを語りださねばならぬほど透徹したものなのだろう。
ゆくすゑに 宿をそことも 定めねば
踏み迷ふべき 道もなきかな
一休