アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

SNSの自由と規制と虚偽報道

2024-11-19 06:46:22 | 時代にFace it

◎何が真実で何が嘘かわからなくなった末路

 

テレビ、新聞、雑誌は、長年重要なテーマにおいて実質的な虚偽報道を繰り返し、自ら視聴者、購読者の信用を失い続けて来たがゆえに、今の斜陽産業となったと思う。SNS隆盛は、確かに原因の一端だが、むしろ重要なテーマや事件において、決定的な世論操作報道を繰り返していたことがマスコミ退潮の主因である。

新聞販売店が溜まった古新聞を回収する日が時々あるが、昔はほとんど全戸古新聞が出ていたのに今では体感15%といったところだろうか。これでは、全国新聞は遠からず1~2社になってしまうのではないか。

 

テレビもネットの普及で視聴者離れが言われる。テレビ番組は、精神年齢8歳から12歳向けに作られていると言われているが、洗脳効果のより強烈なスマホにマインド・コントロールの主戦場が移った結果がそれなのだろう。特にフジテレビの退潮は著しく、南米某国の生のバラエティ番組のように、同じ出演者で3、4時間、一番組一スタジオで流すような退屈な番組がある。

 

今般、トランプ・ハリスの米大統領選挙では、前回大統領選挙同様ほとんどのマスコミは、ハリス押しであった。日本では、ほとんどのマスコミは、米国民主党寄りだが、それは、ずっと昔からそうだった。日本の官僚の世界もGHQの昔から米国民主党寄りだそうだ。当然日本の政界も然り。

米国民主党と言ってもなじみのない人が多いかもしれないが、アメリカで新たに戦争を起こすのはほとんど民主党政権時であって、DSとか産軍複合体と近いのだろうと想像される。

そしてアメリカは、自国で戦争をしない外征国家と言われるが、基本的に自国領土で戦争をしないから繁栄を何十年も続けられている特殊な国家であるということ。

米国民主党とはかくも恐ろしいものだが、その強い影響下にあることが、最近はSNSの普及で日本国民にも知られることになった。

 

今後日本はSNSなど自由な言論を統制(座布団玉串を隠す)、再度の軍国主義化と進み、アメリカから再度の核ミサイル攻撃(降る雨里迦(アメリカ)の一時雨、木枯さへも加はりて)と進むのかもしれないが、それを避ける方法が、個々人が神を知るということ。

 

日本のマスコミは総じて左寄り兼反日(中国・韓国・北朝鮮)であり、左寄り兼反日の知事のことは、パワハラだ、おねだりだというような批判はまずしない(例は、リニアモーターカー工事や辺野古移設工事反対の知事)。左寄り兼反日ではない兵庫県知事のことは、大政翼賛会の如く全マスコミ一致して批判したが、出直し知事選挙の結果、左寄り兼反日ではない候補者が当選した。

 

日本国民は馬鹿ではないから、全マスコミ一致して何かを勧めてくるのは、トランプ・ヒラリー、トランプ・ハリスの大統領選挙やこの前の石破・高市の自民党総裁選挙の時の例を以って学んでいる。兵庫県知事選挙でも、全マスコミ一致して何かを勧めてくることで、県民は何かを感じたのであって、SNSだけが選挙結果を左右したのではあるまい。

 

この兵庫県知事選挙では、ある裏情報暴露がSNSにあって、それによって雪崩式に選挙の構図が変わったが、県民は自分が正しいと信じるものに従って投票した。何が正しいかわからないものについて、選挙民が判断を求められる場合、人はややもすれば信じたい方向の新情報・ヒントに飛びつきがちなものである。この性質を利用すれば巧妙に情報操作、マインド・コントロールは可能であり、選挙結果も変えられる。

 今後そんなことがさらに大量に複雑に行われれば、人は何が真実で何が嘘かわからなくなってしまう。

そうしたこの行き詰まった現代人にこそ日々の冥想は必須なのだ。

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根源に帰一する

2024-11-18 06:50:13 | 浅い霊感から神人合一まで

◎昭和初期の中国道教のレベル

 

英国人プロフェルドは、昭和8年から14年の7年間中国の道士を訪ね歩き放浪した。

 ある道観の住職とプロフェルドの会話。

『住職は笑った。 

「通常の儀礼は抜きにさせていただきます。あなたのおっしゃる「名誉ある宗教」は、むしろ儒教もしくはキリスト教にふさわしい言葉でしょう。私どものは宗教ではなくて、「道」に到る道なのです。また、名誉あるものでも、なんでもありません。そもそも、その種の美辞麗句とはいっさい無縁だからです。

 

「あなたの場合も同じでしょうか、私どもの瞑想と修行は心を清静にすることから始まります。心が静止すれば、我々の内と外、上と下に『道』の存在することが理解できるでしょう。

 

「第二に、私どもは活力を養い、長生きできるように努めます。精神の陶冶に必要な時間をかせぎ、より高度な目標に到達するためです。

 

「そして、その次に来るのが金丹の調合です。一部の誤れる人々は金丹を錬金術的手法で作り出そうとしましたが、実のところそれは体内においてのみ調合されうるものなのです。金丹が私どものうちわでは、不老不死の胎児として知られているのも、このためです。

 

「金丹の製造が不老不死への手段であるという点では、われわれ道家の見解はだいたいにおいて 一致しています。 しかし、ここで道が分かれるのです。 

 

「ある者は、未来永劫の長期にわたる不老不死を求めます。これはつまり、神のような地位の達成であって、これ自体が終局目標となるわけです。 

「他の者は、『根源に帰一する』ため、懸命に奮闘します。これは「涅槃」への到達と同じ理想の極致にほかなりませんが、この思いも寄らないような境地の概念については、当然のことながら内容が異なります。 

「あなたのご質問に関して申し上げれば、我々は物事を順序立てて考えなくてはなりません。で すから、まず、内なる心の静止を生みだす単純な方法をご説明することから始めましょう。 もっと進んだ私どもの修行については、その概略に触れるだけにします。基礎的な訓練を積んでいない者に、これを適正に説明することは不可能だからです。 

「究極目標である『根源への帰一』に関しては何も申し上げますまい。もしあなたが賢明にもこの目標を追究することを決断されるのであれば、仏教の先生を頼りにしなくてはなりません。到達目標が同じであるとすれば、なぜわざわざ新しい手段を身につける必要があるでしょうか。」』道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P248-249から引用)

 

道教の目標は、肉体の不老不死と根源への帰一がある。肉体の不老不死はわかりやすいが、根源への帰一はわかりにくい。

そして肉体の不老不死がそんなにすばらしいものであるかどうか、現代人には疑わしいものと映るでのはないだろうか。

そして、外丹と呼ばれる化学実験のような物質変成では、金丹はできないこと。金丹は、内なる心の静止から始まる冥想で作成するものであって、不老不死の胎児であって、それは涅槃ニルヴァーナと同じ。

 

この点は、西洋錬金術において黄金変成が実は、冥想によって成るものであることと見解を一にする。

 

こういうまともな道士が当時の中国にいたからと言っても、いまは全く残ってはいないのではないか。チベット密教がひどく迫害されたように、特に文化大革命中は伽藍の破壊、道士・僧への迫害はひどいものだったし、知識分子への下放なども行われ、静謐で食べることのできる冥想修行のできる環境はまず失われたのだろうと思う。

そもそも根源への帰一とか涅槃を認めない唯物論だから共産主義なのだから。

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導引と厳しい食糧事情

2024-11-17 07:13:51 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎人間は肉体なしで悟れない

 

11月の声を聞くと例年不調の日が何日かあって、白隠がやったという軟酥の観という観想法によって全身の調整をやったりする日があるものだった。今年は、最近まで最高気温が30度になる日があったせいかそこまで不調になる日はないが、むしろ老化による不調を感じさせられる。

導引と言えば八段錦が有名。八段錦は、数分で行える八種類の気功風体操。毎朝すでに40年くらい八段錦を継続しているが、その効能については、病気らしい病気をしなかったことか。

ダンテス・ダイジの八段錦は速かった。

八段錦を教えられて後中国へ行き、中国で気功・八段錦が広く行われているのは、その健康維持という表面の目的の背後に、ダンテス・ダイジの指摘のように食糧事情が厳しいゆえであることが実感された。

これは1980年代のことだが、当時中国では、やせた人がほとんどで太った人を見ることは稀だった。

 

1970年代に馬王堆漢墓から導引図が出土して、中国では2千年前から導引がメジャーな健康法として行われてきた痕跡が認められ、八段錦は、宋代には成立したとされる。

 最初は、支配階級や読書人の冥想の準備ととして導引があったのだろう。冥想のはじめに柔軟体操での肉体のこりほぐしやガス抜きは、それが魔境や変な想念の原因となることがあるので、必要なものである。

 

食糧事情というのは、冥想修行者にとって死活的な重要なもので、中国のように国全体が食糧事情が厳しい場合は、小食で健康に生きる術として導引が開発されたのだろう。

 

時に何十年も不食、極端な小食の人を知ることがある。例の崑崙山の五百歳の仙人などは一例だが、そうした人は、消化器官が退化していることをダンテス・ダイジが指摘している。そこまでして『霞を食べて』生きなければならないだろうかという疑問を呈示しているのだ。

懐石料理とは、元は、朝一食の禅寺で、僧が午後の飢餓感をしのぐために、懐に温めた石を入れたのが由来。飢餓感があるようでは、定にも入っていないのだが・・・。

 世界的な農作物の不作は、今はカカオ、オレンジくらいだが、今後の主食の不作はいろいろな予言者に見られているので、日ごろから飽食せずに食物を大切に。

そして八段錦など導引も心得ていたほうがよい。

 

また『中国で大規模な飢餓が発生し、それをきっかけに中国が世界戦争に打って出る』(『「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』の予言)というのもある。

 

人間は肉体なしで悟れないから、食は大切である。

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真人の道-出口王仁三郎-2

2024-11-16 03:25:32 | アヴァターラ神のまにまに

◎娑婆即寂光土の真諦

 

真人の道の続き。

『至善、至美、至真の行動を励み、善者または老者を友とし、これを尊み敬い、悪人、愚者、劣者を憐み、精神上にはたまた物質上に恵み救い、富貴を羨(うらや)まず、貧賤を厭わず侮らず、天分に安んじ、社会のために焦慮して最善をつくし、富貴に処しては、神国のために心魂を傾け、貧に処しては、簡易なる生活に感謝し、我欲貪欲心を戒め、他を害せず傷つけず、失敗(つまづ)きたるも自暴自棄せず、天命を楽しみ、人たるの天職をつくし、自己の生業を励み、

天下修斎の大神業に参加する時といえども、頭脳を冷静に治めて周章(あわてず)ず騒がず、心魂洋々として大海のごとく、天の空(むな)しうして百鳥の飛翔するにまかせ、海の広大にして魚族の遊踊するにまかすがごとく、不動にして、寛仁大度の精神を養い、神政成就の神業を補佐し、たとえ善事とみるも、神界の律法に照合して悪しければ、断じてこれをなさず、天意にしたがって一々最善の行動をとり、昆虫といえどもみだりに傷害せず、至仁至愛の真情(まごころ)をもって万有を守る。また乱世に乗じて野望をおこさず、至公至平の精神を持するの人格具(そな)わりたる時は、すなはち神人にして、その心魂はすなわち真心であり神心である。

 

利害得失のために精神を左右にし、暗黒の淵に沈み良心を傷め、些少の事変に際して狼狽し、たちまち顔色を変え、体主霊従、利己主義をもっぱらとするものは、小人の魔心よりきたるのである。内心頑空妄慮にして、小事に心身を傷(やぶ)りながら表面を飾り、人の前に剛胆らしく、殊勝らしく見せむとするは、小人の好んで行なうところである。

霊界を無視し、万世生きとおし、生死往来の神理を知らず、現世のほかに神界幽界の厳存せることをわきまえず、ゆえに神明を畏(おそ)れず、祖先を拝せず、たんに物質上の欲望に駆られて、天下国家のために身命をささぐる真人を罵り嘲(あざけ)り、

死を恐れ肉体欲に耽り、肝腎の天より使命をうけたる神の生宮たることを忘却する小人あまた現われきたる時は、世界は日に月に災害と悪事続発し、天下ますます混乱し、薄志弱行の徒のみとなり、天命を畏れず、誠を忘れ利欲に走り、義をわきまえず富貴を羨み嫉(ねた)み、貧賤を侮り、おのれよりすぐれたる人を見れば、したがって学びかつ教えらるることをなさず、かえってこれを誹(そし)り嘲り、おのれのたらざる点を補うことをなさず、善にもあれ悪にもあれ、おのれを賞めおのれに随従するものを親友となし、ついに一身上の災禍をまねき、たちまち怨恨の炎を燃やすもの、これ魔の心の結実である。

 

執着心強くして解脱しあたわず、みずから地獄道をつくりいだし、邪気を生み、みずから苦しむもの天下に充満し、阿鼻叫喚の惨状を露出する社会の惨状を見たまいて、至仁至愛の大神は坐視するにたえず、 娑婆即寂光土の真諦を説き、人生をして意義あらしめむとの大慈悲心より、胎蔵せし苦集滅道を説き道法礼節を開示したまいたるは、この物語であります。』

(『霊界物語』二十二巻総説より引用)

 

上掲『たとえ善事とみるも、神界の律法に照合して悪しければ、断じてこれをなさず、天意にしたがって一々最善の行動をとり』

袁了凡の功過格にあるような外形が善事であっても、天意にしたがって一々最善の行動をとるためには、神界の律法を心得なければならない。神界の律法を心得るとは、大神に等しい視点を持つということで、神人合一するということ。

 

上掲『また乱世に乗じて野望をおこさず、至公至平の精神を持するの人格具(そな)わりたる時は、すなはち神人にして、その心魂はすなわち真心であり神心である。』

これは、人格のことを言っているように見えるが、さにあらず。大神と同じレベルの心でいるということ。

 

上掲『執着心強くして解脱しあたわず、みずから地獄道をつくりいだし、邪気を生み、みずから苦しむもの天下に充満し、阿鼻叫喚の惨状を露出する社会の惨状』

これは追加の説明も必要なく、当時も現代も、このメカニズムでほとんど地獄な現世が作り出されている。

 

上掲『娑婆即寂光土の真諦』

これは、不安と恐怖と苦悩に満ちた現世(娑婆)は、すなわち苦悩のない仏の世界(寂光土)であるということだが、それはニルヴァーナにある人間にして初めて言える。つまり覚者の二重性のことである。

 

これは一遍

「すてはてて身はなきものとをもひしに

寒さきぬれば風ぞ身にしむ」

という歌の心であって、覚者は、仏と自分個人という二重の世界観を生きている。

また禅僧白隠の〈清浄行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず〉であって、悪行三昧の破戒の比丘でも、世界全体宇宙全体である有の一部である『破戒の比丘』を演じている自分と仏である自分という二重の世界に生きていれば、それは地獄に落ちず悟りを生きていると言えるということ。

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真人の道-出口王仁三郎-1

2024-11-15 06:20:55 | アヴァターラ神のまにまに

◎真心とは大神と神人合一した心

 

真人の心が真心だが、出口王仁三郎は、当時の時代の趨勢を受けて、次のように控えめに述べる。

『真心とは、天地の先祖の大神の大精神に合致したる清浄心である。』

 

大神と神人合一することを説くのではなく、「大神の大精神に合致したる清浄心」と心理、心に矮小化せねば、国家神道の最盛期で天皇の人間宣言以前の時代には世を渡っていけなかったのだろう。

本当は、真心とは大神と神人合一した心なのだろうと思う。

 

また悟った人の特徴としては、正直であること、フランクであること、悪いことをしない、善いことだけをするなどわずかな特徴だけが知られているだけだが、以下は参考になるだろう。基本線は、悟りは人格的成熟とは関係ないということ。また以下には、大神すなわち見神あるいは神人合一者の特徴がいくつか散りばめられている。

 

以下、霊界物語から真人の道。

『真人の道 

 

天の下に生きとし生ける万物のなかにありて、もっとも身魂(みたま)のすぐれたる人間には天より上中下三段 の御霊(みたま)を授けて、各自の御霊相応に世界経綸の神業をおわしめたまい、天国の状態を地上に移して、それぞれ身魂の階級を立て別けられてあるけれども、

 

今の世は身魂の位置顚倒して霊肉一致の大道破れ、八頭八尾の邪霊や、金毛九尾の悪狐の霊や邪鬼の霊魂なぞ人類の精神を誑惑(きょうわく)し、ついには地上の世界を体主霊従、弱肉強食の暗黒界と化せしめたるため、今の世界の惨状である。これだけ混乱した社会(よ)をなんとも思わぬようになったのも、地上の人類がみな邪神の霊魂に感染しきっておるからである。

 

天下経綸の神業に奉仕すべき人類の御魂がさっぱり脱退(ぬけ)てしまい、九分九厘まで獣畜(けもの)の心に堕落して、世界は上げも下ろしもならぬようになり、かなたの大空よりこなたの空へ、電火のひらめくがごとき急変事の突発せずとも断定しがたい。世界の人類は一日もはやく眼を覚まし、誠一つの麻柱(あなない)の道によりて霊魂を研(みが)き、神心にたちかえらねばならぬ。

 

真心とは、天地の先祖の大神の大精神に合致したる清浄心である。至仁至愛にして万事に心をくばり意をそそぎ、善事に遭うも凶事に遇うも、大山の泰然として動かざるがごとく、びくつかず、焦慮(あせ)らず、物質欲に淡白(あわ)く、心神を安静に保ち、なにごとも天意をもって本となし、人と争わずよく耐えしのび、宇宙万有いっさいをわが身魂の所有となし、春夏秋冬、昼夜、風雨、雷電、霜雪、いずれも言霊(ことたま)の御稜威(みいづ)に服従するまでにいたらば、はじめて神心を発揚しえたのである。

 

また小三災の饑病戦、大三災の風水火に攻められ、いかなる艱苦の淵に沈む時ありとも介意せず、幸運にむかうも油断せず、生死一如(しょうしいちによ)とこころえ、生死にたいしては昼夜の往来をみるがごとく、世事いっさいを神明の御心にまかせ、好みなく憎みなく、義をみては進み、利をみて心を悩まさず、心魂つねに安静にして、人事をみること流水のごとく、天地の自然を楽しみ、

小我を棄て大我に合し、才智に頼らず、天の時に応じ、神意にしたがい、天下公共のために舎身の活動をなし、万難に撓(たわ)まず屈せず、善を思い、善を言い、善を行ない、奇魂(くしみたま)の真智を照らして大人の行ないを備え、物をもって物をみきわめ、他人の自己(おのれ)に等しからむことを欲せず、心中つねに蒼空のごとく海洋のごとく、二六時中意思内にのみむかい、自己の独り知るところを慎み、その力量才覚を人に知られむことを望まず、天地の大道にした がって世に処し、善言美辞を用い、光風霽月(せいげつ)少しの遅滞なく、神明の代表者たる品位を保ち、自然にして世界を輝かし、心神虚しくして一点の私心なきときは、その胸中に永遠無窮の神国あり。』

(続く)

(『霊界物語』二十二巻総説から引用)

 

上掲『宇宙万有いっさいをわが身魂の所有となし、春夏秋冬、昼夜、風雨、雷電、霜雪、いずれも言霊(ことたま)の御稜威(みいづ)に服従するまでにいたらば』とは、宇宙全体が自分である神人合一した状態(第六身体)であって、六神通の超能力がすべて使える状態を言っている。

 

上掲『いかなる艱苦の淵に沈む時ありとも介意せず、幸運にむかうも油断せず、生死一如とこころえ、生死にたいしては昼夜の往来をみるがごとく、世事いっさいを神明の御心にまかせ』

これも、生死一如という生も死もわきまえた状態であって、意識の極限状態を超えた神人合一の状態が前提となっている。

 

上掲『天の時に応じ、神意にしたがい』これは、恣意なく私なく、天意神意のみに拠って生きること。

 

上掲『自己の独り知るところを慎み、その力量才覚を人に知られむことを望まず』これは、言っていることが真実であっても、聞いてわかる人がいなければ、それは行われないこと。そして名声を望まないこと。

 

上掲『神明の代表者たる品位を保ち、自然にして世界を輝かし、心神虚しくして一点の私心なきときは、その胸中に永遠無窮の神国あり。』この神明の代表者とは真人、神人、完全人のこと。神人合一して肉体に帰還できれば、アダムカドモンやアダムのような完全人として、自分らしく生きることができる。自分らしく生きるとは、大死一番から帰還して初めて言えるのだと思う。

 

※体主霊従:われよし。

 弱肉強食:つよいものがち。

※麻柱(あなない)の道:高い所へ登る足がかりが麻柱。転じて霊線、クンダリーニ、すなわち大神につながっているエネルギーコード。

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無と空-メモ-3

2024-11-14 03:58:37 | アヴァターラ神のまにまに

◎般若心経のネタバレ

 

空(空性)は、一般的に諸々のものは実在性を欠いており、中身は風船のように空であるということ。

龍樹は、空において言葉は止滅しているという。つまり空を体験するためには、言葉のない場所に居なければならない。

空は、サンスクリット語では、シューニャであって、中味がないということ。そこは、肉体も自分も宇宙も言葉も無いところ。

そこに何が残っているかを龍樹も彼の後継者たちもはっきりとは言ってない。

 

般若心経では、『色即是空空即是色』とある。これは、あらゆる現象には実体はなく、実体がないのがまたあらゆる現象であるということ。つまりあらゆるものが実体がないというポイントから先には出ていないが、それが智慧の完成だと般若心経は主張している。

 

実体が無いという無は空だが、空という体験とは言えない体験において、一歩進んで、

『その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

という秘儀が起こる。

 

この一文の事象は般若心経では隠されているが、般若心経はシューニャの境地に至れば否応なく自ずとわかるという立場なのだろう。

 

この何千年間、隠されてきたネタバレをオープンにしても構わないとOSHOバグワンもダンテス・ダイジも思ったのだろう。OSHOバグワンは、これを無のポジティブ面すなわち窮極を経た先にある現実と見た。

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親鸞は妻を観音菩薩の化身と見た

2024-11-13 06:53:16 | まはさてあらん、AEIOU

◎ダンテス・ダイジの性愛冥想から

 

芸能界や世間で、菩薩、マリア様と呼ばれる女性は、時に貞操がゆるい女性の代名詞だったりする。親鸞が妻を観音菩薩の化身と見たのは、別のこと。

 

親鸞の妻は二人。最初の妻は九条兼実の娘・玉日だが、亡くなって 二番目の妻恵信尼と再婚した。

 

以下ダンテス・ダイジの性愛冥想から。

『インドのサーキャ哲学の系統を引いた左道タントリズムには、すべて交合する相手の女性をプラクリティーと見なす立場がある。

プラクリティーとは簡単に言えば、現象世界一切を意味し、 サーキャ・ヨーギは、そのヨーガ行を通じて、現象一切を滅尽して

モクシャ(解脱)なるプルシャの独存に到達する。

 

プルシャとは、不変不滅の絶対観照者であり、プルシャに到って、人間のあらゆる苦悩は消滅する。

しかし、もともとのサーキャ・ヨーガの原義は、あくまでもヨーガ行者の実存的冥想の中で覚証開明されるものであって、プルシャ-プラクリティの教説は、あくまでもヨーガ冥想実践者の純形而上的論理として、実践の指標とするものに他ならない。

 

だから、プラクリティを女性と見なして、その女性との性交により、解脱を得んとする立場は、すでに純粋ヨーガの立場が、形式化、儀式化に堕落する危険を包んでいると言える。

 

このヨーガ・タントリズムの儀式化は、浄土真宗開祖親鸞上人が、その妻を観音菩薩の化身と見て、そこに霊的結婚生活を生きたのとはまったく違う次元のことなのである。

 

親鸞の言う「観音菩薩」としての女性とは、

彼が、女性を観音菩薩の化身と見立てるというような儀式的なことではなく、彼は絶対者の顕現としての、一切万物の中の一つのかけがえのないものとして、妻を観音菩薩であると直視している。

 

親鸞のその妻との具体的性生活の内容は、知るよしもないが、彼が妻即観音菩薩という覚知を得たことによって、性愛神秘主義の実践者であったことは、充分に納得することができる。』

(ダンテス・ダイジの性愛冥想から引用)

 

要するに親鸞が性愛冥想の修行者でなければ、妻即観音菩薩という境地は出てこないと言っている。

観音菩薩とは、あらゆる世界の現象の流出元であるが、それはクンダリーニ・ヨーギにとってはアートマンと呼ばれる上昇であったり、只管打坐では身心脱落と呼ばれる下降だが、それぞれの冥想法においてはそれまでの修行プロセスに応じた個と全体の逆転のネーミングがあるものだ。

妻即観音菩薩といえば、インドならサンヴァラ交合像を思い起こさせるが、その性的な具象は、あくまで世界全体のシンボルの一種であって、親鸞はそこに人間を超えた救済を見ているのだと思う。

 

※サーキャ哲学とは、サーンキャ哲学のことか。

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日本占領と火の玉

2024-11-12 07:12:06 | 古神道の手振りneo

◎火の玉のいつ飛び出すかわからざる

(2021-10-26)

 

出口王仁三郎のいろは歌から、日本占領の企ての予言。

『ねらう要所は対馬に津軽、馬関海峡其次ぎに、舞鶴軍港岸和田の、間の軍備に眼を着て、地勢要害取調べ、又も越前敦賀より、尾張の半田に至るまで、国探を放ちて探索し、一挙に御国へ攻め寄せて、総ての活動中断し、日本を占領する企み。』

(いろは歌:小松林命作)

※小松林命:出口王仁三郎の正守護神

 

次に火の玉。出口王仁三郎は関西にあって、東の空の火の玉を見る。何のことだろうか。

 

『東の空に魍魎(もうりょう)のむらがりて火の玉となり荒れ狂はんとすも』

(出口王仁三郎の歌集 言華P280)

 

『火の玉のいつ飛び出すかわからざる東の空は常闇(とこやみ)なるも』

(言華P282)

 

○日本の立替と戦争

『北海道は○○やなあ。東北地方は半ば占領される。戦争で日本の立替はあらかた済むのやな。』

(出口王仁三郎玉言集新月の光/木庭次守編/八幡書店P211から引用)

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無と空-メモ-2

2024-11-12 06:46:58 | アヴァターラ神のまにまに

◎心理・意識から現実への転換

 

心理・意識から現実への転換法とは、西洋錬金術なら土くれを黄金に変成する方法であって、只管打坐なら身心脱落、真言密教なら即身成仏、臨済禅なら大死一番、ソーマ・ヨーガならあらゆるものと死ぬということ。

そこでは、個たる人間である自分が死んで、宇宙全体に転換するという逆転、変換、逆立ちが起こる。世界がまったく変わってしまうのである。

 

これを神秘家は、古代において10の次元と語ったが、人類の進化により、七つの次元と言い習わし、個から全体に変わるのは、第五次元エーテル体から第六次元アートマンに至る部分であることは知られている。

ただし、初手から第七次元ニルヴァーナを望見できるわけではなく、第七次元ニルヴァーナに到達した者のみが、第六次元から第一次元肉体を俯瞰できる。

 

この点で未悟の者すなわち第七次元ニルヴァーナ未到達の者が、次元全体を語っても群盲象を撫でるが如きもので、何もならないことになる。

 

次元相互の連関は、行法によって入る次元出る次元が異なることをダンテス・ダイジが指摘しているが、これは複数の行法・冥想法を極めた者のみが追体験できる。

 

それにしても心理・意識から現実への転換とは、あらゆる実感を経た、ほとんど人生、転生を卒業しかけた、いわば魂年齢が高い者のみに与えられた恩寵のようなものだが、それが、およそ俗人の想像する類のようなものではないことは、古今の様々な書物、文献が伝えている。

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大本神歌-4

2024-11-11 07:02:41 | 古神道の手振りneo

◎降る雨里迦(アメリカ)の一時雨、木枯さへも加はりて

(2021-10-31)

 

(大意)

敵であった唐国は、叢雲も砲烟弾雨も晴れ渡って一旦は日本の味方となったのだが、戦後処理の過程の中で、東の空の勢力との調整がうまく行かず、退くに退かれず結局開戦となる。

戦端が開かれると、五十余億(兆?)の軍資をも一年経ぬ束の間に、烟散霧消する大惨事。巨万の死亡者が発生し、農工商の産業も、次第次第に衰えて、進退ここにきわまって、天を拝し地に伏して、狼狽して騒ぐ弱虫の、中身が外国人の身魂は自ら現はれ狂う憐れさである。

青菜に塩の如く、あちこちで溜息が出るばかり。こんな時に、売国奴やら利己主義者も横行し、万時休す。

日本は形としては、祖国を守りながら世界を救った姿となったが、まだまだ安心できぬと言っている最中に、アメリカから一発の暴風雨付き核ミサイルが、一つの国に空から炸裂。それは、山の尾根の紅葉も、はかなく散らして、悲しげな鹿の泣く声が四方に立つことになる。

ここに近代西欧文明は終わり、少々寂しい元の姿の目出たい文明、至福千年が始まる。

 

(本文)

『大本神歌(四)

カラ国の天に漲る叢雲も、砲烟弾雨も晴渡り、日の出の守護と成るなれば、斯上無き御国の幸なれど、十重に二十重に累なりし、糸のもつれの弥繁く、解る由なき小田巻の、繰り返しつつ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退れぬ破目と成り、

 

弥々出師と成る時は、五十余億の軍資をば、一年経ぬ束の間に、烟散霧消の大惨事、鉅万の生霊土と化し、農工商の国本も、次第次第に衰ろヘて、青菜に塩の其如く、彼方此方に溜息を、吐く吐く思案に暮の鐘、進退爰に谷まりて、天を拝し地に伏し、狼狽さわぐ弱虫の、カラの身魂は自から、現はれ狂ふ憐れさよ。

 

然れど日本は千早振、神の守りし常磐国、国の真秀国珍の国、神が表面に現れまして、御国を守り給ひつつ、世界を救ひ玉ヘども、未だ未だ心許されぬ、

 

一つの国の御空より、降る雨里迦の一時雨、木枯さへも加はりて、山の尾の上の紅葉も、果敢なく散りて小男鹿の、泣く声四方に竜田山、神のまにまに四ツの尾の、山の麓の竜館、集り居ます神々の、厚き恵みに照り返す、紅の楓葉の、元の姿ぞ目出度けれ。

大正六年十二月一日』

(大本神歌/出口王仁三郎から引用)

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無と空-メモ-1

2024-11-11 06:47:13 | アヴァターラ神のまにまに

◎心理・意識から現実へ

無と空は同義だと言っておきながら、無には、ポジティブ面とネガティブ面があると述べた。ところが冥想修行者にとっては、重要なポイントが語られていない。どこまでが心理あるいは意識状態で、どこからが現実かということ。これは、ズバリ個人が宇宙全体に逆転するのはどのポイントかということにからんでいる。

タロットでも易でも西洋占星術でもよいが、どんな占いでも、心を何も映っていない鏡にするのは基本。何も映っていない鏡に占う対象を映じさせるのが占いだが、心を何も映っていない鏡にした後に何かが起こる。

何も映っていない鏡は、無であって、ダンテス・ダイジなら石ころの心だが、そこから豊かに満ち満ちてあふれ出すとは、そこに心理・意識から現実への転換が起きているということ。

この点について、覚者たちは逆転や変身と言うことはあるが、気がつくだけという言い方もする。ところがこのポイントは、意識の絶対的な極限状況であって、釈迦やクリシュナムルティや空海が見た明星の直前ポイントなのだろうと思う。

OSHOバグワンにしてもダンテス・ダイジにしても、何も予備知識もいささかの体験もない人にこれを説明しても有害無益なので、ここは多くは説明していない。ジャンプアウトがあるからである。

平たくいえば、OSHOバグワンのいう無のネガティブ面は心理・意識であって、ポジティブ面は、窮極を経た先にある現実なのだ。

また無心を「なにもかもなし」と同じと単純に見ることもできない。

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大本神歌-3

2024-11-10 12:08:38 | 古神道の手振りneo

◎第三次世界大戦
(2021-10-29)


(大意) 
日本は、日清、日露、第二次世界大戦と経てきたが、これからは、更に何段階かの第三次世界大戦がある。
初段は、「戊の、午の年」からスタート。アラスカ、シベリア、モスクワのラインから日本に侵攻開始(アメリカも入っている)。
二段目は、ミサイルや軍用機が天を蔽い、東の空に舞い狂って幕が開く。(二段目は、あまりに悲惨で出口王仁三郎も詳述を避けた。)
三段目になって、ようやく国の御祖神が選んだ48人の神人が、日本心を振り起し、何の猶予もなく、言霊をもって、天下の四方の国々を治めて、ようやく至福千年、千早振る神代ながらの祭政一致、常磐の御代が実現する。

※瑞能神歌:『ほ日の命の現はれて、海の内外の嫌ひなく、降らす血雨の河と成り、屍は積みて山を為す、カラクレナイの敷島の、赤き心は日本魂、火にさへ焼けぬ国魂の、光り輝く時となり、体主霊従の身魂を焼き尽し、水火の国の中津国、下津岩根に現はれし、厳の御魂の勲功の、天照る御代の楽もしさ。』

(原文)
『大本神歌(三)
綾の高天に顕はれし、国常立の大神の、神諭畏こみ謹みて、厳の御魂と現はれし、教御親の神勅に、日清間の戦ひは、演劇に譬へて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年に渡りし世界戦、

竜虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜線を花道と、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を尽し、工夫を凝らし神国を、併呑せんと寄せ来り、天の鳥船天を蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、茲に二段目幕が開く。

三段いよいよ開く時、三千余年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集る大本の、神に仕へし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心を振り起し、厳の雄猛び踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官に、直日の御魂を楯と為し、

何の猶予も荒魂、爆裂弾の勇ぎ能く、神の軍の奇魂、奇しき勲功は言霊の、天照る国の幸魂、言平和す和魂、魂の助けの著るく、轟く御代を松の代の、

四十有八の生御魂、言霊閣に鎮まりて、四方の国々天の下、治めて茲に千早振、神代乍らの祭政一致、開き治めて日の本の、現津御神に奉る、常磐の御代ぞ楽しけれ。』
(大本神歌/出口王仁三郎から引用)

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無の二側面と空

2024-11-10 07:18:50 | アヴァターラ神のまにまに

◎鏡あるいは石ころがとても素晴らしいものであると誰が思うだろうか

 

墓に行くと五輪塔があり、一番上のスライム様の石を見かけることもあるだろう。これが空のシンボル。

OSHOバグワンは、空は、ウパニシャッドでは、至福と呼ばれ、仏教・釈迦はこれを空と呼んだと説明する。OSHOバグワンは、空とは心全体が去ったゆえに、不安、苦悩、恐怖がないから至福であるとする。

 一方でOSHOバグワンは、無には、ネガティブな見方とポジティブな見方があるとする。曰く、無とは、からっぽのものである死のような闇のような地獄のような、喜びなく歌がなく胸の高鳴りのないもの、これがネガティブなものであるという見方。これが西洋で神が無と呼ばれない理由で、西洋では無は恐怖であった。うつろな心は悪魔の仕業などと言って。例外は、ディオニシウス、エックハルト、ベーメ。

 

逆に無についてポジティブな見方をとるのは、東洋。OSHOバグワンは、釈迦は、空の中でのみ、無の中でのみ神のような質が起こり得るとする。空と無は同義。

OSHOバグワンは、釈迦、マハーヴィーラ、禅者、道士においては、無とはすべてのものが消え失せた後には、ただ純粋な意識だけが残る。曰く鏡には何も映っていないが鏡だけが残る。鏡に映っているものがマインド(頭)、何も映っていない鏡がノーマインド(無心)。

 何も映っていない鏡は、無であって、ダンテス・ダイジなら石ころの心だが、そこから豊かに満ち満ちてあふれ出す。『仏陀はこの無を「満ち溢れる慈しみ」と定義した。』(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP526から引用)

慈しみとは愛である。

※ディオニシウス:紀元1世紀のアテナイ人。キリスト教神学と新プラトン主義を結び付け独自の神秘主義を立てた。 

この一見無機質で、とりつくしまもない鏡あるいは石ころがとても素晴らしいものであると誰が思うだろうか。この功利的で殺伐とした地獄のような気分の人が多数生きる時代に。

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大本神歌-2

2024-11-09 06:34:30 | 古神道の手振りneo

◎カラ国の侵攻

(2021-10-28)

 

(大意)

連合国の味方であるとこれまで尽くしてきた唐国が覇権戦略に転換し敵対開始、白露国も加わって、連合国が勝つべき戦も負け始め。西の空は暗雲漂い、ついにはインド洋も手中にする。ウラジオ、日本海と跳梁し、日本本土に侵攻し、戦勝までもう一息のところで、

天火水地と結んだ大和魂の言霊のパワーにより、渦巻き猛る荒浪に、敵国の大艦小船残り無く、すべて海底の藻屑となる。 

敵の核ミサイル、戦闘機、爆撃機、ドローン、軍艦、潜水艦も、皆それぞれに亡び失せ、影をも止めぬ惨状に、敵連合軍もおのいて、引き続いてやってくる松と梅の至福千年は、世界を救う、神の稜威であって尊いことだ。

 

(原文)

『大本神歌(二)

聯合の国の味方と今迄は、成て竭せしカラ国の、悪魔邪神が九分九厘、モウ一厘の瀬戸際に、旗を反すと白露の、其振舞いの非義非道、凡ての計画を狂はせて、勝つ可き戦争の負け始め、永びき渡る西の空、黒雲晴るる暇も無く、独り気儘の仕放題、

 

印度の海も掠め取り、茲にも深き経綸為し。次いて浦塩日本海、我物顔に跳梁し、卜ン卜ン拍子に乗り出して、神の御国を脅迫し、モウ一ト息と鳴戸灘、

 

渦巻き猛る荒浪に、大艦小船残り無く、底の藻屑と亡ぶるも、綾の高天に最と高く、空に聳えし言霊閣、天火水地と結びたる、五重の殿に駆け登り、力の限り声限り、鳴る言霊の勲功に、

 

醜の鳥船軍艦、水底潜る仇艇も、皆夫れぞれに亡び失せ、影をも止めぬ惨状に、曲津軍も慄のきて、従ひ仕へ来る世を、松と梅との大本に、世界を救ふ艮の、神の稜威ぞ尊とけれ。』

(大本神歌/出口王仁三郎から引用)

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大本神歌-1

2024-11-09 06:32:13 | 古神道の手振りneo

◎世の終わりからみろくの世の始まりまで

(2021-10-27)

 

大本神歌は、出口王仁三郎のものを平素から読み慣れていないとやや読みにくいかもしれぬ。例によってこの手の文は、三様の意味にとれる言葉が並ぶものだ。

全体として、大正(大正6年12月1日)から世の終わり、みろくの世の始まりまでを韻文で描いている。大意をつけてみたものの、そのとおりかどうか。

 

(大意)

世界各国は、日本以上に軍備を強化し、海中空中、地上地中に兵器を配備し、日本に昔日の軍事大国の面影はない。とりわけアメリカのミサイルについては、国民に注意を呼び掛けていたが、馬耳東風で聞く耳を持たなかった。

戊の、午の春夏秋に懸け(戊午ではなくて、戊と午が分かれているところがヒントか。)、皆散り散りに潜水艦と空襲に逃げ惑う姿が哀れである。

 

(原文)

『大本神歌(一)

東雲の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の国、四方に周らす和田の原、外国軍の攻難き、神の造りし細矛、千足の国と称えしは、昔の夢と成りにけり。

 

今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も、地上地中の撰み無く、備へ足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて、

 

明治の二十五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝ちを取らせつつ、猶外国の襲来を、戒しめ諭し様々と、神の出口の口開き、詔らせ給へど常暗の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで馬の耳、風吹く如き人心、

 

アア如何にせん戊の、午の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒浪の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋る神の前、水底潜る仇艦と、御空に轟ろく鳥船の、醜の荒びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなり。』

(大本神歌/出口王仁三郎から引用)

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