◎これはまだ一時の分岐点に過ぎない
い山霊祐(いさん・れいゆう。七七一~八五三。潙(い):さんずいに為)禅師は、福建省長渓の生まれ、十五歳で受戒、大小乗の経と律をおさめ、二三歳のとき江西に遊び百丈懐海禅師に参じてその法を嗣いだ。百丈和尚は一見して霊祐の参禅を許したという。
い山霊祐は食事係で、百丈和尚のそばに侍立していた。
百丈和尚が霊祐にたずねた。「いろりに火は残っているか」。霊祐はいろりの中を探って言った。「残っていません」。和尚は自ら探り、小さなおき火を見つけると言った。「これは火ではないのか」。
霊祐はそれを見て大悟覚醒し、礼拝してその見解を述べると、百丈が言った。
「これはまだ一時の分岐点に過ぎない。経典に、『仏性を見んと欲せば当に時節因縁を観ずべし』、とある。時節が至れば、迷いからたちまち悟るが如く、忘れたものをたちまち思い出すが如し。自己のものを他によって得るのではないとわかる。
故に祖師は云う、『悟った後は、未だ悟っていないのと同じで、心も無くまた法も無い』
ただ虚妄凡聖等(迷いや悟りという区別)の心が無ければ、本来、心と法は自ずから備わっている。おまえは今それがわかった。それをしっかり自ら守り育てよ。
※虚妄凡聖:虚妄は凡夫の迷える心。凡聖は凡夫と悟った人(聖人)。虚妄凡聖で、迷いや悟り。
い山霊祐のこの悟りは、見性であって、十牛図なら見牛。対応を誤れば、悪の道にも落ちるので、分岐点とする。
だからアドバイスは、それをしっかり自ら守り育てよ、となる。