アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

原駅の婆が白隠をひっぱたく、から自然法爾-1

2024-11-06 06:39:33 | 達磨の片方の草履

◎わが身が弥陀であって、山河大地、草木叢林が、大光明を放っている

 

『【三九】原駅の婆

 

原の宿場に、一人の婆さんがいた。たまたま松蔭寺に来て、白隠禅師の説法を聴いた。

「唯心の浄土、己身の弥陀という。我が心がお浄土、我が身が阿弥陀さまということだ。その阿弥陀さまが一たび現われれば、山河大地、草木叢林、いっときに大光明を放つ。もし、そのことを知りたければ、余事を交えず、ひたすらに自分の心に尋ねることだ。「我が心がお浄土であるからには、その浄土には特別の荘厳はない。我がこの身が阿弥陀さまであるからには、阿弥陀さ まには特別な姿形はない」 と」

 

婆さんは、白隠禅師の説法を聴き、

「そんなに難しいことではない」 と思った。

 

家に帰った婆さんは、日夜、寝ても醒めても、「唯心の浄土、己身の弥陀」と、参究工夫した。 ある日、鍋を洗っていた時、ハタとそのことが分かった。婆さんは、鍋を放り出し、急いで松蔭寺に走り、白隠禅師に相見した。

「ババは、己身の弥陀にぶちあたり、山河大地、草木叢林が、大光明を放っております。 不思議なことでございます」

と言うなり、喜びに舞い上がった。 そこで禅師は、

「そなたはそのように言うが、では、便所の糞つぼの中でも、大光明を放っておるか」

と問うた。

すると婆さんは、禅師の前に進み、

「この老漢、まだ悟ってはおらぬわ」

と、平手打ちを食らわした。

 

白隠禅師は、呵呵大笑するだけであった。』

(白隠門下逸話選/禅文化研究所P90-91から引用)

 

この婆さんのすごいところは、まず「我が心がお浄土であって、特別の荘厳はない。我がこの身が阿弥陀さまであって、特別な姿形はない」と聞いて、「そんなに難しいことではない」と思ったこと。いい線行っていたのだ。

 

また「ババは、己身の弥陀にぶちあたり、山河大地、草木叢林が、大光明を放っております。」というのは、自分が宇宙全体である阿弥陀様と一つであることに気づき、世界全体が大光明を放っていることを言っているのだろう。

 ギリシア神話でミダス王が触れるものすべてが黄金になって困ったという話とは全く異なる。

 またこれを読んでほとんどの人が肉体から光を放射するのが悟りだと思うかもしれないが、トイレの便器も光るということは、世界全体が光明ということであって、窮極(阿弥陀、ニルバーナ)から来る波動を無限光明と言うように、比喩の一つ。

 白隠は、阿弥陀仏を材料に「唯心の浄土、己身の弥陀」という観想法をやらせたのだ。

また禅では、光を見たとか光を放ったと言えば、まず魔境として退けられる。

 同じ阿弥陀様ということで、親鸞の自然法爾と比べてみる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする