◎自然法爾とは、恣意がなく天命を生きる生き方
親鸞の末燈抄から自然法爾の部分の現代語訳を引く。
『自然法爾(じねんほうに)
自然法爾事
自然というのは、自はおのずからということであり、われわれ人間の計らいではない。然というのは「そうさせられる」ということばである。「そうさせられる」というのは、われわれ人間の計らいではない。如来の御誓いであるから法爾というのである。法爾というのはこの如来の御誓いであるが、「そうさせられる」ことを法爾というのである。
法爾はこの御誓いであったから、およそわれわれ人間の計らいのないのはこの法の徳であるから、「そうさせられる」というのである。人間は無始の古から、「そうさせられる」のであるから、今更はじめて自力の計らいを必要としないものである。そのため義なきを義とすと知るべきであると言われている。
自然というのは、もとから「そうさせられる」ということばである。弥陀仏の御誓いは、もとよりわれわれ人間の計らいでなくて、 南無阿弥陀仏とおたのみになり、迎えようと御計らいになったことだから、人間が善だろうとも悪だろうとも思わぬのを、自然と申すのだと聞いている。御誓いの用は無上仏にならせようとお誓いになったことである。無上仏というのは、形も無い。形も無いから自然と言うのである。形があるとしめす時は、無上仏とは言わぬ。形もないはたらきを知らせようとして、はじめて顕れた仏が弥陀仏と言うのだと聞いている。弥陀仏は自然のはたらきを知らせるための手段である。この道理を心得てしまった後には、この自然のことをかれこれ言うてはならないのである。自然をかれこれ言 うことなのでは「義なきを義とする」ということばも、なお計らいのあることである。これは仏の智慧の不思議である。
正嘉二年十二月十四日
愚禿親鸞八十六歳
(丹羽文雄訳)』
(親鸞全集 第2集 現代語訳 書簡 親鸞/講談社P36から引用)
自然法爾とは、天意・神意のことで恣意がないこと、あるいは天命を生きる生き方であって、如来の御誓い。
人間は無始の古から、「そうさせられる」とは、本来の自己、父母が生まれる以前の自分を生きるということ。原人、完全人のイメージ。
無上仏というのは形も無いとは、無のサイドであってニルヴァーナ。これに対して形があるのは有のサイドであって、阿弥陀仏。
よって、「自然」のことをあれこれ言ってはならないというのは、「自然」とは天意・神意のことだからである。
ここでは、光を見たとか光を発するということは出てこない。有の悟り(アートマン)が阿弥陀仏であって、有すらもない悟り(ニルヴァーナ)が無上仏。
原駅の婆の悟りは、まずは有(アートマン)の悟り。白隠は、「阿弥陀さまには特別な姿形はない」と有であると示している。これからニルヴァーナに進むに進むには、聖胎長養が必要なのだろう。
白隠自身が、法華経に宝石だらけの極楽の姿などがあるのを読んで、一旦は法華経を捨てたが、後年になって法華経がリアルであることを知った。「ババは、己身の弥陀にぶちあたり、山河大地、草木叢林が、大光明を放っております。」とはそういうことなのだろうと思う。