アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

今ここを生きれば生と死は同時にある

2024-11-30 03:25:21 | アヴァターラ神のまにまに

◎私は今死につつあり、私は今、生きている

クリシュナムルティは、時間すべては今であると唱えた。それにまつわる説明。過去も現在も未来も、今であるということ。

 

クリシュナムルティの説明。

『ですから、知識はありません。冥想はありません。修練はありません。あらゆるものごとは止まります。

問いを異なったように言ってもよいでしょうか。たとえば仮に、私は、自分が死のうとしていることを知るとします。今と死との間に時間の間隔があります。すなわち、私は一月一日に死ぬでしょう。(私は現実には一月一日に死ぬことにはならないでしょう!)医師たちは私に話したのです―私には末期の癌があり、そして一月一日までしか生存できない、と。ですから、私は死ぬまで二箇月程あります。時間すべては今であるなら、私は〔今〕死につつあるのです。

 

ですから、私は時間をもちません。私は時間がほしくありません。ですから、死は今です。人間の頭脳はいつのときも死とともに生きることができるでしょうか。理解していますか。

 

私は死のうとしていますそれは確かです。そして、私は言うのです―後生だからちょっと待ってください、と。しかし、私は、時間すべては今であるという事実を悟るならそれは、死と生きることはともにある〔という意味〕、それらはけっして分離していないという意味です。

 

ですから、知識は私を分割しているのです――私は一月の終わりに死ぬことになるという知識が、です。そして私は怯えるのです。「どうか、どうか、待ってください、待ってください。私は遺言を残さなければいけない。私はこれをしなければいけない。あれをしなければいけない」、と私は言うのです。

 

しかし、私は死とともに生きるなら、いつのときもそうしているのです。すなわち、私は遺言を書き上げるのです。私は今死につつあるのです。それは、私は〔今〕生きているという意味です。私は生きているし、死は隣にあるのです。生きることと死ぬことの間には、離別も分離もないのです。

 

あなたはこれができるでしょうか。それとも不可能でしょうか。それは、死が「あなたは何も持っていけない」と言う、という意味です。あなたの知識、あなたの書物、あなたの妻と子ども、あなたのお金、あなたの性格、あなたの虚栄、あなた自身で築き上げてきたすべて――あらゆるものごとは、終わりに死とともに去るのです。

 

あなたは、輪廻転生する可能性があると言うかもしれません。しかし、私はあなたに尋ねているのです――あなたは、何にも最小の執着もなく、今生きることができるでしょうか。なぜこれを―すなわち執着を-病床まで先送りするのでしょうか。今執着から自由でありなさい。』

(明日が変わるときクリシュナムルティ最後の講話 J.クリシュナムルティ/著 UNIO P68-69から引用)

 質問者たちからクリシュナムルティに、どういう冥想をすればそうなるかという質問は出なかったようだ。「ただこんな風になる」とだけクリシュナムルティは説くが、後継者が育たなかったのは、教え方の問題か、縁の問題か。

今ここに関する講演を聞いたり、今ここの話を読んだりする人もいるかもしれない。生活実感として“今ここ“を生きるということは、『私は今死につつあり、私は今、生きている』という、日常感覚からは全く理解できない現実を、平常心で生きることだとわかる。

これが、平常心是道

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