三月成徳節度使王士眞が亡くなった。憲宗は恒例となっていた世襲をゆるさず、王承宗に圧力を加えた。そのため承宗は成徳節度使の領州六のうち、徳・棣二州を献上することで認可を求めた。憲宗もそれをゆるしたのだが、承宗は違約して二州を渡さなかった。
そのため十月成徳討伐が宣言されたが、主将は意外にも宦官吐突承璀であり、世論[といっても官僚の世界だけであるが]は沸騰した。
十一月には札付きの淮西節度使呉少誠が死亡し、部将呉少陽が少誠の子を殺して自立した。少陽は反抗姿勢をすこしゆるめ、憲宗は成徳討伐中でもあり一応就任を認めた。
そのため十月成徳討伐が宣言されたが、主将は意外にも宦官吐突承璀であり、世論[といっても官僚の世界だけであるが]は沸騰した。
十一月には札付きの淮西節度使呉少誠が死亡し、部将呉少陽が少誠の子を殺して自立した。少陽は反抗姿勢をすこしゆるめ、憲宗は成徳討伐中でもあり一応就任を認めた。