元和八年(813年.弘仁三年) 2006-10-30 19:33:51 | Weblog 淄青・淮西は形勢不利と見て憲宗のご機嫌伺いを行ったが、憲宗はこれを拒否して強硬態度を示した。 二月西川節度使より武元衡が宰相に戻り強硬派が力を増し、魏博田弘正を懐柔して王承宗包囲体制を作っていった。 十月北辺の振武軍節度使李進賢の失政により軍乱が起こった。
元和七年(812年.弘仁二年) 2006-10-30 17:54:59 | Weblog 七月には遂王宥[後の穆宗]が立太子した。 八月には魏博節度使田季安が亡くなり、子の懷諫が嗣いだが幼少でもあったため統制がとれず、牙軍は十月一族の田興を立てた。 通常朝廷は自立したものを認める場合はいったん留後とし、軍の正式要請を待って節度使とするのが慣例であったが、憲宗は宰相李絳の提案によりいきなり節度使として認めた。 もともと儒学の徒であり、自分の正統性を危惧していた田興[賜名され弘正]は感激し朝廷に忠誠を誓うことになった。 このため河北の藩鎭は魏博・幽州・義武・横海の朝廷派が優勢となり、成徳・淄青らの反朝廷派は危機感をもつことになった。