唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和二年(807年.大同元年)

2006-10-27 22:07:09 | Weblog
正月には宰相陣も李吉甫や武元衡といった対藩鎭強硬派が台頭してきた。
十月大きな税源である浙西地方の鎭海節度使李が反乱をおこしたが、すぐ部下に見捨てられ誅殺された。
前代の宗の姑息な政策のため、浙西程度の藩鎭でも勝手しほうだいであったが、憲宗はそれをゆるさない方針を貫いたことによる反乱であった。
また嶺南でも黄洞[西原]蠻の討伐が進んだ。

元和元年(806年.延暦24年)

2006-10-27 18:17:18 | Weblog
憲宗はついに決断し、西川劉闢を討伐することにした。
従来の緩慢な藩鎭軍の動員をせず、親衛である神策軍を、若手の将軍高崇文に率いさせて剣南地方に突入させた。
崇文は三月に東川節度府を奪回し、九月には劉闢を捕らえ誅殺した。
剣南地方は安禄山の乱でもしめされるように唐の後背地であり自立をゆるすことはできなかったのである。
また韓全義引退の後、夏綏に拠った楊惠琳も討滅され、安黄節度使伊愼[正月鄂岳に統合]・武寧節度使張愔[十一月に王紹が赴任]も入朝して朝廷の威権が回復傾向に入った。
閏七月山東地方の強鎭である淄青節度使李師古が死亡し、弟師道が嗣ぐことになったが、朝廷はまだ影響を及ぼすことができなかった。