前年末には徴税に長けていて宗の信任の厚い裴延齢に逐われ、宰相陸贄が失脚し、その党が一掃された。五月に河東節度使李自良が亡くなり、後任には行軍司馬李説が昇進したが、実権は監軍[宦官]王定遠が握り専権を極めたため七月まで混乱が続いた。また八月には司徒の馬燧もなくなった。九月には河北藩鎭の横海軍で内乱が起こり、節度使程懷直が逐われ、一族の懷信が跡をついだ。河北では節度使の世襲が行われていたとはいえ、その地位は不安定で親衛軍である牙軍の意向しだいで廃立がおこなわれる状況であった。
南詔[雲南蠻]は吐蕃を攻撃して神川で大勝し唐との友好を深めた。吐蕃勢力は剣南方面では弱化し、唐=南詔連合が優勢となった。
六月には河北藩鎭にたいする抑止力となっていた昭義軍節度使李抱眞が亡くなり、昭義軍はその跡目争いで、王虔休と元誼との争いが続くことになり弱体化したが、河北藩鎭もまた内部紛争が続きつけいることはできなかった。
六月には河北藩鎭にたいする抑止力となっていた昭義軍節度使李抱眞が亡くなり、昭義軍はその跡目争いで、王虔休と元誼との争いが続くことになり弱体化したが、河北藩鎭もまた内部紛争が続きつけいることはできなかった。
二月には大軍を動員して鹽州城を再建した。このため長安地域への吐蕃の侵入は困難となり人心は安定した。西川節度使韋皐は積極的に吐蕃を攻撃し大破するとともに、侵攻の手先となっていた西山地域の蕃国[西山八国という、女王国もあった]を慰撫し帰服させた。そのため西川では勢力関係が逆転することとなった。八月には朱の乱を鎮定した大尉李晟が亡くなり、もう一人の名将司徒馬燧も老耄して騒乱の時代が去ったことを感じさせた。内地では宣武軍節度使で動乱が続き、劉士寧は逐われ部将李萬榮が自立した。