唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武寧軍節度使 徐泗濠節度使 その1

2012-02-01 18:40:42 | Weblog
・乾元二年[759年]~上元二年[761年]河南節度使(領徐泗海亳穎五州)が徐州に置かれた。
副元帥李光弼の下で尚衡が節度使であった。史朝義の平定とともに廃された。
・その後徐州は淄青平盧節度使の管轄となっていた。
・建中二年[781年]淄青李正己が死に子の納が嗣ぐと、その從父兄徐州刺史李洧は唐朝に帰順し、
不満派の海州刺史王涉、沂州刺史馬萬通と約して自立しようとした。建中三年[782年]には徐
海沂都団練観察使が置かれたが、納の反攻によって海沂州は失われて徐州のみを維持することになった。
・洧は10月に卒し、部將高承宗が徐州刺史となったが興元元年[784年]にはこれも卒し、
子の明應が嗣いだ。
・貞元4年[788年]宰相李泌は淮南浙江からの租庸運搬の要衝である徐州を守るために、
李希烈から壽州を守り抜いた張建封を移すことを建議し、徐泗濠節度使を置いた。
建封は厚にして綱紀が有り淄青李納がつけいる隙を与えず漕運を円滑に行わせた。