・牙軍残党が草賊と合流し徐州付近の治安は極度に悪化し、咸通4年[863年]4月群盗が徐州に乱入
する事件が起き、咸通5年には徐泗観察府を置き軍を再建することになった。宿泗観察使は廃止された。
・そして草賊を徴募して雲南蠻への防禦のため嶺南道に派遣する制度が開始された。
・咸通9年[868年]に至り桂管観察使に派遣されていた徐州軍士は3年の交替期限が来ても召還され
ず不満が募っていた。これは観察使崔彦曾が交替経費をけちったことに起因する。
6月派遣軍は龐を頭として勝手に帰還を始めた。途中の淮南節度使令狐綯は懦怯であり、
これを伐たず、無事に戻った龐達は昔なじみの草賊達を集めて徐州を陥し、彦曾を捕らえた。
・咸通10年[869年]龐の勢力は巨大となり、付近の数州を制圧した。唐朝は康承訓を將として征討
したがなかなか鎮圧できなかった。9月賊の仲間割れを誘うことでやっと鎮圧をしたが徐州付近は完全に荒廃した。
・咸通10年[869年]徐泗節度使を置くがすぐ都団練防禦使とした。
・あいかわらず群盗が蜂起するなかで、咸通11年[871年]6月徐泗観察使を置き、ついで感化軍節度使とした。
治安強化と賊の官軍化のためであったが、軍の規律は極めて低く賊に等しかった。
・乾符元年[874年]節度使薛能は治安が保てないことを上奏し、隣道の兵の助力を求めた。
・廣明元年[880年]黃巢が勢いを増し、感化將時溥は節度使支詳を逐い自立した。
する事件が起き、咸通5年には徐泗観察府を置き軍を再建することになった。宿泗観察使は廃止された。
・そして草賊を徴募して雲南蠻への防禦のため嶺南道に派遣する制度が開始された。
・咸通9年[868年]に至り桂管観察使に派遣されていた徐州軍士は3年の交替期限が来ても召還され
ず不満が募っていた。これは観察使崔彦曾が交替経費をけちったことに起因する。
6月派遣軍は龐を頭として勝手に帰還を始めた。途中の淮南節度使令狐綯は懦怯であり、
これを伐たず、無事に戻った龐達は昔なじみの草賊達を集めて徐州を陥し、彦曾を捕らえた。
・咸通10年[869年]龐の勢力は巨大となり、付近の数州を制圧した。唐朝は康承訓を將として征討
したがなかなか鎮圧できなかった。9月賊の仲間割れを誘うことでやっと鎮圧をしたが徐州付近は完全に荒廃した。
・咸通10年[869年]徐泗節度使を置くがすぐ都団練防禦使とした。
・あいかわらず群盗が蜂起するなかで、咸通11年[871年]6月徐泗観察使を置き、ついで感化軍節度使とした。
治安強化と賊の官軍化のためであったが、軍の規律は極めて低く賊に等しかった。
・乾符元年[874年]節度使薛能は治安が保てないことを上奏し、隣道の兵の助力を求めた。
・廣明元年[880年]黃巢が勢いを増し、感化將時溥は節度使支詳を逐い自立した。