唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武寧軍節度使 徐泗濠節度使 その4

2012-02-04 10:24:00 | Weblog
・太和7年[833年]より崔珙-薛元賞-李彦佐と続きなんとか牙軍を抑えてきたが、
火種は残ったままであった。
・會昌3年[843年]5月彦佐は昭義劉稹征討を命ぜられたが成果を上げることが出来ず、
10月朔方へ左遷された。
・次の田牟は牙軍の御機嫌取りに徹して甘やかせ、次の李廓(程の子)は大中3年[849年]逐われた。
・義成盧弘止が転任し乱者を誅したが表面的なものであった。
・大中13年[859年]康季榮が逐われると、田牟が再び登用され牙軍をなだめた。
・咸通2年[861年]牟が卒すると、温璋が赴任し公正な統治をしようとしたが
咸通3年[862年]7月牙軍に逐われた。
・唐朝は浙東で仇甫の乱を鎮圧した王式に命じ、その軍とともに赴任させた。
8月式は牙軍数千名を誅して粛清した。しかし余黨は地方に逃げ賊となった。
・武寧軍節度使は廃されて徐州団練防禦使となり、兗海節度使に属させた。
また領州を分離させ宿泗等州都団練観察使を宿州に置いた。