・幽州/范陽節度使は契丹・奚・渤海などに対する防禦として景雲元年[711年]に設置された。
・節度使安禄山は天寶14年[755年]11月に反乱を起こし唐朝は滅亡の危機に瀕した。
・乱中の至徳元年[756年]河東節度使李光弼が任ぜられたが、あくまで形式であり赴任すること
はできなかった。
・至徳2年[757年]12月賊将史思明が安慶緒より帰順し節度使に任ぜられた。
これにより乱は鎮静に向かうと思われたが、宦官らの思明をも除こうとする陰謀が発覚し、
乾元元年[758年]4月思明は相州の安慶緒を囲む唐朝軍を潰滅させ乱が再び大きくなっていった。
・廣徳元年[763年]幽州の留守を守る李懷仙は、敗走してきた史朝義を殺し帰順した。
范陽節度は幽州盧龍軍と改称し懷仙が節度使となった。領州は幽莫媯檀平薊の六州であった。
・成李寶臣,魏博田承嗣,相衛薛嵩,盧龍李懷仙は半独立の体制を保ち、勝手に軍備を整備し、
官吏を任免し,貢納を唐朝に納めなかった。
・大暦3年[768年]地位を得て横暴となってきた懷仙は、兵馬使朱希彩や朱・洙滔等に殺された。
後任として宰相王縉が一応赴任したが、希彩等に威圧されて、自立を続けることを認めざる得なかった。
希彩が節度使となった。
・節度使安禄山は天寶14年[755年]11月に反乱を起こし唐朝は滅亡の危機に瀕した。
・乱中の至徳元年[756年]河東節度使李光弼が任ぜられたが、あくまで形式であり赴任すること
はできなかった。
・至徳2年[757年]12月賊将史思明が安慶緒より帰順し節度使に任ぜられた。
これにより乱は鎮静に向かうと思われたが、宦官らの思明をも除こうとする陰謀が発覚し、
乾元元年[758年]4月思明は相州の安慶緒を囲む唐朝軍を潰滅させ乱が再び大きくなっていった。
・廣徳元年[763年]幽州の留守を守る李懷仙は、敗走してきた史朝義を殺し帰順した。
范陽節度は幽州盧龍軍と改称し懷仙が節度使となった。領州は幽莫媯檀平薊の六州であった。
・成李寶臣,魏博田承嗣,相衛薛嵩,盧龍李懷仙は半独立の体制を保ち、勝手に軍備を整備し、
官吏を任免し,貢納を唐朝に納めなかった。
・大暦3年[768年]地位を得て横暴となってきた懷仙は、兵馬使朱希彩や朱・洙滔等に殺された。
後任として宰相王縉が一応赴任したが、希彩等に威圧されて、自立を続けることを認めざる得なかった。
希彩が節度使となった。