唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使 嶺南東道節度使 その3

2012-02-08 10:10:08 | Weblog
・貞元5年[789年]節度使李復は高宗時代に失われた瓊州(海南島)を回復した。
・廣州は貿易の中心であり、その節度使は巨利を得る地位であった。
・長慶3年[823年]老齢の工部尚書鄭權は宦官王守澄に嶺南節度使就任を依頼した。
その理由は妾が多くてというもので、さすがの守澄も絶句した。權は就任の翌年卒した。
・宝暦2年[826年]崔植は経費節減のため廣湖封雷潘辯等七州の軍備を廃した。
これ以降嶺南の治安は悪化した。
・節度使胡證は収斂して巨財を貯めたが、その没後の大和九年[835年]甘露の変時に
神策軍に財を狙われて子らが殺された。
・大中12年[858年]節度使楊發は軍乱により逐われた。右金吾大將軍李燧が征討を
命ぜられたが、給事中蕭倣は不可として認めず、原節度使李承に代えられた。
唐代には皇帝の命令でも諌官によって突き返されることがみられた。
・咸通3年[862年]より嶺南道が分割され廣州は嶺南東道節度使(邕管が嶺南西道
節度使に)となり韋宙が任じられた。