・天寶10年[751年]安南管内経略使が置かれ、交陸峯愛驩長福禄芝武峩演武安十一州を領した。
領州は多いが、現地住民の未開発地に置かれたものがほとんどであり、
統治も現地酋長を登用した実態のないものであった。
・乾元元年[758年]節度使となったが領州を含めて変化はなかった。
・上元2年[761年]頃日本人の朝衡[阿倍仲麻呂]が節度使となったようである。
・廣徳2年[764年]鎭南大都護都防御観察経略使となった。依然長官は朝衡である。
・大暦元年[766年]旧称の安南都護府に戻った。
・建中3年[782年]演州司馬李孟秋が反し安南節度使を自称した。このころより現地豪族の自立
と不満が高まっていったようである。
・安南首領杜英翰叛、攻都護府。都護高正平憂死
4.貞元7年[791年]都護高正平の苛政に抗議して,蠻酋杜英翰等が起兵し都護府を囲んだ。正平
が憂死すると、事態は収まり、虔州刺史趙昌が赴任することができた。
領州は多いが、現地住民の未開発地に置かれたものがほとんどであり、
統治も現地酋長を登用した実態のないものであった。
・乾元元年[758年]節度使となったが領州を含めて変化はなかった。
・上元2年[761年]頃日本人の朝衡[阿倍仲麻呂]が節度使となったようである。
・廣徳2年[764年]鎭南大都護都防御観察経略使となった。依然長官は朝衡である。
・大暦元年[766年]旧称の安南都護府に戻った。
・建中3年[782年]演州司馬李孟秋が反し安南節度使を自称した。このころより現地豪族の自立
と不満が高まっていったようである。
・安南首領杜英翰叛、攻都護府。都護高正平憂死
4.貞元7年[791年]都護高正平の苛政に抗議して,蠻酋杜英翰等が起兵し都護府を囲んだ。正平
が憂死すると、事態は収まり、虔州刺史趙昌が赴任することができた。