・咸通8年[867年]対雲南蠻政策を提言してきた宙は嶺南の節度使としてはじめて使相となった。
・乾符6年[879年]9月南下してきた黃巢軍は廣州を陥とし節度使李迢を捕らえた。巢は唐朝に対
して嶺南節度使に任じられるように求めたが、南海貿易の利を重視する唐朝はこれを認めなかった。
・暑熱と疾病により病死者が続出した黃巢軍では不満が高まり、10月廣州を棄てて北上が始まった。
・黃巢軍が去った廣州では鄭續が節度使として入った。
・光啓年間[885年-]以降嶺南は数少ない唐朝直轄の方鎭であったが、地元豪族の勢力が急激に強く
なり、その勢力の均衡で擁立されている傾向が強くなった。
・乾寧2年[895年]以降、嗣薛王知柔[清海軍節度使と號された]-徐彦若と元宰相が続いたが、豪族劉隠の擁立であり、
天復元年[901年]彦若が卒すると隠が自立して「南漢」への道が開かれた。
・乾符6年[879年]9月南下してきた黃巢軍は廣州を陥とし節度使李迢を捕らえた。巢は唐朝に対
して嶺南節度使に任じられるように求めたが、南海貿易の利を重視する唐朝はこれを認めなかった。
・暑熱と疾病により病死者が続出した黃巢軍では不満が高まり、10月廣州を棄てて北上が始まった。
・黃巢軍が去った廣州では鄭續が節度使として入った。
・光啓年間[885年-]以降嶺南は数少ない唐朝直轄の方鎭であったが、地元豪族の勢力が急激に強く
なり、その勢力の均衡で擁立されている傾向が強くなった。
・乾寧2年[895年]以降、嗣薛王知柔[清海軍節度使と號された]-徐彦若と元宰相が続いたが、豪族劉隠の擁立であり、
天復元年[901年]彦若が卒すると隠が自立して「南漢」への道が開かれた。