唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使 嶺南東道節度使 その2

2012-02-07 10:17:19 | Weblog
・天寶元年[742年]頃には嶺南五府經略使が置かれ、嶺南桂管容管邕管安南の五道を管轄し、
廣州に治所を置いていた。
・至徳元年[756年]嶺南節度使となり、廣韶循潮康瀧端新封春勤羅潘高恩雷崖瓊振儋萬安藤
の二十二州を領し、山東魯などに兵を送った。
・暑熱ではあるが南方貿易も所管し巨利を得られる赴任地であった。
・乾元元年[758年]大食[イスラム系の海賊もしくは商人]の攻撃により、脆弱な兵備しか
ない節度使韋利見は城を棄てて逃げた。大食は廣州を荒掠し去った
・廣徳元年[763年]宦官で市舶使呂太一は節度使張休を逐ったがやがて平定された。
・その後文官の赴任が続いたが、大暦8年[773年]循州刺史哥舒晃は節度使呂崇賁を殺して
自立した。唐朝は江西観察使路嗣恭に嶺南節度使を兼任させて討伐させた。
・乱軍の勢いが強いことと、軍備が整わないために長期戦化し、大暦11年[776年]になって
嗣恭は流人孟瑤や敬冕を將に任用してやっと廣州を復し,晃及び其黨萬餘人を誅した。