唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

(番外)河北三鎭 その1河北六鎭時代

2013-02-24 13:23:11 | Weblog
安禄山-慶緒-史思明-朝義と続いた安史の乱後に河北で半独立体制をひいた藩鎭を「河北三鎭」と呼ぶ。普通は幽州盧龍軍(李懷仙)・恒州成徳軍(李寶臣)・魏博天雄軍(田承嗣)であるが、副元帥僕固懷恩が河北を平定した時には「河北六鎭」が安史の残党であった。相衛昭義軍(薛嵩)・滑州永平軍(令狐彰)・汴州(張獻誠)であり、平盧軍系の諸鎭と併せて河北・河南を占有し唐朝の指令はほとんど届かない地域であった。ところが
1.汴州張獻誠(守珪の子)は領域の狭さに加え、唐朝の旧臣としての意識が強く、廣徳2年[764年]に領域を返上し、山西節度使に移り唐朝の完全な配下となった。
2.滑州令狐彰は半独立の体制は維持したが、貢納には応じ、吐蕃対策の派兵には協力していた。そして大暦8年[773年]の没後に、子孫には継承させず領域を唐朝に返上し、文官李勉に引き継がせた。
3.相衛薛嵩(相衛邢洺貝磁)は他の三鎭とともに半独立の体制を維持したが、大暦8年に卒し、子の平は継承を拒否し、弟崿が継承した。そのどさくさを魏博田承嗣につけ込まれ、10年將裴志が乱して崿を逐い承嗣についた。唐朝はこれを討伐したが結果として、相衛貝の三州は魏博に入り、邢洺磁の三州は澤潞昭義軍(李抱眞)の管轄として唐朝に回収された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする