①.大暦三年[769]置涇原節度使,治涇州。
邠寧節度使馬璘[邠寧慶涇原]が涇州に移治し成立。
吐蕃の侵攻に対する防衛が邠寧一鎮では力不足であり、強大な朔方河中郭子儀の軍団を邠寧慶に配置して共に防ぐことを企画しました。
しかし旧邠寧軍は安西四鎭と北庭節度使から、安史の乱に際して派遣された軍団を母体としており、あちこちを転々と流浪し、やっと邠州で落ち着いたと思うと、さらに辺境で危険な涇原への移鎭を宣告されたため、軍団兵士の憤激は激しく、乱が企てられましたが、首帥の馬璘が先行し、留後の段秀實がなんとか慰撫をして無事に移動することができました。
②.大暦五年[771]涇原節度使馬璘訴地貧軍廩不給,遙領鄭、潁二州。
涇原二州とは言え、原州は失われて行州であり、涇州も戦乱に荒れ果てた地域でったので、到底軍団を養える状態ではありませんでした。
また移鎭時の不満も残り、憂慮した節度使馬璘は増領を要求しました。当然の要求であったので内地の河南鄭州と潁州二州の税を与えることで納得させた。これらは飛び地です。
③.大暦十四年[779]潁州隸永平節度使
大暦十一年馬璘は卒し、留後段秀實が継ぎました。
度支からの糧食供給も円滑になってきたので飛び地を返却していくことになりました。しかし宰相楊炎に秀實は憎まれて解任されました。
④.建中元年[780]劉文喜の乱
後任は厳格な李懷光[朔方河中]が兼任し、さらに辺境の原州築城移鎭が決まると、不満な牙軍は劉文喜を首領として吐蕃と通謀しました[しかし吐蕃は応じなかった]。
德宗は懷光を解任し、徳望のある朱泚に交代させたのですが、四月に反しました。朱泚らはこれを包囲し、牙將劉海賓等は形勢不利とみて文喜を殺して降りました。
⑤.建中二年[781]鄭州隸永平節度
⑥.姚令言の乱
建中四年[783]淮西李希烈が侵攻し、危機となった東都を助けるため關内の諸軍が動員されました。
十月節度使姚令言に率いられた涇原軍が、寒風の中を京師を経由して東都に向かったのですが、あまりの低待遇に憤激して反して京城を襲撃しました。
德宗は奉天城に敗走し籠城することになりました。
もともとは叛意はなかった姚令言も、前鳳翔幽州節度使朱泚を奉じて反乱を起こすことになりました。[この時唐朝は軍費に苦しんでいたのは事実ですが、德宗自身は私財を貯め込んでいました]
涇原の残留軍は馮河淸を節度使として唐朝側に残ったのですが、興元元年[784]4月牙將田希鑒は河淸を殺して朱泚につきました。
しかし形勢が不利になると6月朱泚をも裏切り唐朝に帰服しました。
副元帥李晟はこれを赦さず閏10月に誅しました。
④.貞元六年[790]涇原節度領四鎮北庭行軍節度使
この歳、吐蕃が北庭都護府を陥し、節度使楊襲古は敗死し本来の北庭節度使は亡びました。
貞元七年[791]築平涼故城.築朝谷堡、九年築鹽州城により涇原は対吐蕃防衛線を構築します。
元和三年[808]の築臨涇城により防衛線は完成します。
⑦.元和四年[809]涇原節度增領行渭州。
その後涇原節度使は神策系の武将が主に節度使となります。
中和元年[881]黄巣の京師占領後、節度使程宗楚等は奪回に参加しますが敗死しました。
中和二年より張一族が涇原節度使を世襲していきます。
しかし弱小藩鎭なので大勢に影響を与えることはありません。
⑧.乾寧元年[894]涇原節度賜號彰義軍節度,增領渭、武二州。
鳳翔李茂貞の勢力下に入り李繼儼[茂貞の子]が節度使となり五代へと続きます。