鳳翔府は京師の西隣に有る重要な都市です。
安史の乱後、隴右道が吐蕃に奪われた後は、常に蕃域に接した地域でもありました。
①.至徳二年[757]十二月岐州は西京鳳翔府となりました。
②.上元元年[760]置興鳳隴節度使
正月、元京兆尹崔光遠が鳳翔尹秦隴節度使となり成立しました。
その後武臣系の節度使が続きました。
永泰元年[765]澤潞節度使李抱玉が対吐蕃防衛の責任者となり鳳翔隴右節度使を兼任しました(隴右と言っても名前だけですが)。
抱玉の統治は大暦十二年まで続き、その後入朝した幽州朱泚の兼任となりました。そして多数の幽州兵が鳳翔や周囲方鎭に入るようになりました。
③.建中四年[783]興鳳隴節度賜號保義節度。是年,罷保義
建中三年泚の弟幽州朱滔が反すると、泚は軍權を外され、宰相張鎰が兼任するようになりました。
四年十一月泚が反し、德宗皇帝が奉天城に遁走し籠城、鎰は皇帝を支援して出兵しました。
ところが軍兵は朱泚側に傾き、鳳翔将李楚琳は乱して鎰を殺しました。
しかし楚琳は積極的に泚側には付かず、両端を決め込みました。
賜號は張鎰に与えられたのか、楚琳を宥めるために与えられたのかは不明です。
興元元年[784]唐朝側が優勢になると、楚琳は入朝し左金吾大将軍となりました。
そして京師回復の功臣である副元帥李晟が鳳翔に入りました。
④貞元元年[785]保義節度增領臨洮軍使
⑤貞元三年[787]罷保義節度,置都團練觀察防禦使。未幾,復置節度,兼右神策軍行營節度使。
初,隴右節度兵入屯秦州,尋徙岐州,及吐蕃陷隴右,德宗置行秦州,以刺史兼隴右經略使,治普潤,以鳳翔節度使領隴右支度營田觀察使
李晟は対吐蕃強硬派、河東節度馬燧は融和派でした。德宗皇帝は燧を支持して、融和策に反対する晟の軍權を取り上げて太尉に祭り上げました。
鳳翔節度は格下げされて晟の部下の邢君牙が都團練觀察防禦使となりましたが、その後の推移(吐蕃が盟約を破り、燧も失脚したため)で節度,兼右神策軍行營節度使に戻りました。
鳳翔隴右の「隴右」は、旧隴右節度使が所領を吐蕃に逐われて鳳翔に移動してきたために処置されたものです。
⑥.元和元年[806]升隴右經略使為保義節度,尋罷保義,復舊名。是年,增領靈臺、良原、崇信三鎮
貞元十年[794]幽州節度劉濟と弟瀛州刺史澭が争い、敗北した澭は所部の兵を率いて唐朝に亡命してきました。
德宗皇帝は秦州刺史隴右經略軍使として鳳翔府の普潤県に屯させ吐蕃防禦に当たらせていました。
憲宗皇帝はその精兵と澭を活用しようとして、元和元年四月節度に昇格させましたが、二年十二月に澭は卒しました。当然廃鎮です。
その後元和末までは武官系の節度でしたが、長慶[821~]は文官・武官が半々になっていきました。
大和九年十二月には李訓(甘露の変)の与党の節度使鄭注が監軍により殺されました。
⑦.大中四年[850]增領秦州。
大中三年より吐蕃の内乱による衰微によって、その領域が唐朝に帰服してきました。
七月秦州もまた帰服したため鳳翔節度使に帰属しました。
⑧.大中三年[849]升秦州防禦守捉使為秦成両州経略使
⑨.大中五年[851]罷領隴州,以隴州置防禦使,領黃頭軍使
⑩.大中六年[852]秦成両州経略使領押蕃落等使
隴右河西地方が唐朝に帰属しはじめた対策です。
咸通年間[860~]より鳳翔節度使は使相が在任することが多くなりました。
⑪.咸通五年[864]秦州隸天雄軍節度
秦州に天雄軍節度使を設けて独立しました。
廣明元年[880]十二月黄巣により京師が陥落し、僖宗皇帝と宦官田令孜が成都に遁走すると、元宰相で鳳翔節度使鄭畋は京師回復を宣言し、諸軍を集め京城四面行営都統となりました。
ところが武官への統率力はなく、中和元年[881]十月鳳翔将李昌言がこれを逐い自立しました。
李昌言(中和元年~四年卒)弟昌符(中和四年~光啓三年)と二代継襲しました。
昌符は朱玫と共謀して嗣襄王を僞帝に立てましたが、裏切って僖宗を鳳翔に迎えたのです。
しかし僖宗が率いていた神策軍と争い敗死しました。
後任の節度使は李茂貞であり、急速に勢力を拡大し唐朝を支配しようとしました。
景福元年[893]邠寧王行瑜・華州韓建と組んで、山西[宦官楊復恭と養子守亮が據]討伐を強請し、唐朝が認めないのを無視してこれを滅ぼしました。
景福二年[894]正月、唐朝は茂貞を山西兼武定に移し、宰相徐彥若を鳳翔節度使としました。
当然茂貞は従いません。
そのため八月嗣覃王嗣周に茂貞を討たせたがかえって敗北しました。
十月茂貞は京師に侵攻し、宰相杜譲能等を殺害しました。
⑫.乾寧元年[894]鳳翔節度增領乾州,未幾罷
乾寧二年[895]茂貞等は京師を犯したため、昭宗皇帝の依頼を受けた河東李克用は邠寧王行瑜を敗させ、茂貞はひたすら謝罪しました。
克用が引き上げると、また茂貞は近隣方鎭に勢力を拡張し唐朝にしたがわなくなりました。
乾寧三年六月茂貞は京師に迫り婁館に唐朝軍を破った。為に昭宗皇帝は華州に遁走しました。
乾寧四年[896]唐朝は茂貞を西川節度使[王建が支配]に移しましたが、当然無視されました。
そして征討軍となった覃王軍を奉天城に包囲しました。
茂貞はがて韓建と妥協し包囲を解き、光化元年[897]昭宗皇帝は京師に戻りました。
そして宦官と結んだ茂貞の傀儡となりました。
天復元年[900]、宣武朱全忠が京師に侵攻すると、茂貞は昭宗皇帝を鳳翔に拉致しました。
全忠は鳳翔を包囲し、茂貞は敗戦を重ね、所領を次々と陥されました。
西川王建もまた山南西道の茂貞領を侵食しました。
天復三年[902]茂貞は全忠と和し、昭宗皇帝を引き渡しました。
その後、茂貞は王建と連携し、全忠を牽制しましたが、勢力は弱く単なる地方政権に終わりました。