唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

華州・鎭国[ちんこく]軍節度使の歴史

2018-10-22 09:54:39 | Weblog
華州は京師と東都を繋ぐ経路にあり、その地にある潼関は京師防衛の重要拠点です。
華州刺史は潼関防禦鎭国軍使を兼ねるのが通例です。

①.上元二年[761]以華州置鎮國節度,亦曰關東節度。
史朝義滅亡後、宦官魚朝恩の配下である李懷譲が同華節度使としてこの要地を抑えました。

②.廣徳元年[763]罷鎮國軍節度
寶應二年[763]六月、宦官程元振は李懷讓を讒言し自殺させました。
②は誤りであり廃節度使は大暦二年[767]のことです。

その後魚朝恩の配下周智光が同華節度使となり吐蕃防衛に功績がありましたが、増長し反抗することが多く、
大暦二年唐朝は河中郭子儀に討伐を命じました。
それを聞いた麾下は智光を殺害し降りました。

以降は華州刺史潼関防御鎮國軍等使として文官の任命が続き、潼関防禦兵二千が置かれるのみでした。

③.興元元年[784]以華州置潼關節度使
建中四年[783]京師で朱泚が反し、華州にも侵攻しました。
文官の刺史董晉は遁走しましたが、
潼関を守る鎭国軍副使駱元光[西域人]は逆襲して奪回し、華州刺史潼関防禦鎭国節度使に任ぜられました。
その後元光は朱泚・李懷光討伐に功績があり、賜名され李元諒となりました。

④.貞元四年対吐蕃防衛の為、元諒は隴右節度使を兼任し、良原に築城して屯しました。

⑤.貞元九年[793]罷潼關節度。
李元諒は良原に卒し、華州節度使は華州刺史潼関防御鎮國軍等使に戻り、文官が赴任することになりました。

廣明元年[880]黄巣による京師侵攻が始り、長い文官統治により潼関の防禦はすっかり衰微していて、簡単に突破され京師は陥落しました。

⑥.大順元年[891]以前、以華州置鎮國軍節度
忠武軍将から宦官楊復光下で討黄巣→鹿晏弘下で山西占拠→宦官田令孜配下へという経歴の韓建は文徳元年[888]には華州刺史となっていました。
宰相張濬が朱全忠と組んで河東の李克用を攻撃すると、その都虞候兼供軍糧料使となり節度使にも任ぜられたとみえます。

韓建は鳳翔李茂貞、邠寧王行瑜と組んで唐朝を圧迫し続けましたが、
乾寧二年[895]河東李克用が侵攻するとただちにこれに降り滅亡を免れました。

乾寧三年[896]唐朝が鳳翔李茂貞と戦い敗北し、昭宗皇帝は李克用を頼って東走しようとしました、
途中韓建は華州に誘致しました。
建は禁軍を解散し、諸王を殺害するなどしたため唐朝はすっかり衰微しました。

⑦.乾寧四年[897]兼領同州節度
七月建は李茂貞麾下の匡國節度使李繼瑭を脅かして逃走させ、十月同州を兼併しました。

⑧.光化元年[898]華州節度兼興德尹
昭宗皇帝は李茂貞と和解し京師に戻りました。
八月功績により華州は昇格し興德府になり、建は興德尹となりました。

⑨.光化三年[900]罷鎮國軍節度及興德尹。

天復元年[901]朱全忠が京師に侵攻し、韓建はすぐ降り忠武軍節度使に移されました。
以降華州は朱全忠の領域に入りました。
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