唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

夏綏[かすい]節度使の歴史

2018-10-10 17:30:31 | Weblog

①.貞元三年[787]置夏州節度觀察處置押蕃落使,領綏、鹽二州,其後罷領鹽州。
吐蕃防禦のため夏州に左羽林大将軍韓潭が屯し、夏綏銀三州を管轄しました。
しかし銀州は城郭もなく、度支からの供給による軍事基地としての色彩が強いものでした。

韓潭のあとは貞元十四年[798]神策軍より宦官勢力と結託した韓全義が夏鹽綏銀節度使となりました。
全義は十六年[800]に蔡州行營招討使として淮西吳少誠を討ちますが敗北し逃げ帰りました。
暗愚な德宗皇帝は宦官にごまかされ処罰はされませんでした。
鹽州は誤記でしょう。

永貞元年[805]德宗が崩じると、処罰を怖れた全義は入朝し致仕しました。空気を読めない甥の楊惠琳は自立しようとしましたが討たれて誅された。

○.元和八年[813]鹽州隸夏州。自夏州至豐州,初置八驛。
鹽州はこの前後とも朔方に属しており、この旧紀の記載は誤りでしょう。

②.元和九年[814]夏州節度增領宥州
寶應[762]後廃止されていた宥州が経略軍に復置されました。
これは吐蕃から黨項を守るためでした。
しかし宥州は十五年[820]に吐蕃に陥され、また長慶四年[824]節度使李祐により復されました。

吐蕃の侵攻が絶えない辺境であり、神策系の武将が赴任する方鎭でした。

③.長慶四年[824]節度使李祐、塞外築烏延。宥州。臨塞。陰河。陶子等五城。

④.大和七年[833]以銀州刺史領銀川監牧使。

⑤.開成三年[838]夏州節度使領採造供軍、銀川監牧使。
二年七月節度使劉源が銀州監牧使等も管轄することを請願し認められました。

⑥.大中十年[856]夏州節度使增領撫平党項等使

夏州付近は黨項が盤踞し、中和年間以降は拓抜氏[賜姓され李氏]の支配下になりました。
李思恭-思諫-成慶と世襲していきます。

⑦.中和二年[882]夏州節度賜號定難節度
拓抜思恭は京師回復を援助した功績により賜姓され、夏州付近を与えられました。そして五代から西夏王国へと続いていきます。
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鄜坊[ふぼう]・渭北[いほく]節度使の歴史

2018-10-10 15:57:37 | Weblog

①.上元元年[760]置渭北鄜坊節度使,治坊州,并領丹、延二州
対党項防衛のため邠寧節度使を分割して成立しました。
鄜州刺史杜冕が節度副使となり、邠寧節度とともに京師にいる郭子儀が統括するということになりましたが、子儀には実権がありませんでした。治所は坊州です。

②.永泰元年[765]渭北鄜坊節度使罷領丹、延二州,增領綏州
故李光弼の弟光進が坊州刺史渭北節度使に、辛德謙が延州刺史丹延都団練使→都団練観察安塞軍使となり分離しました。この背景は不明です。

③.大暦六年[771]渭北鄜坊節度使更名渭北節度使,復領丹、延二州

④.大暦十四年[779]罷渭北節度,置都團練觀察使
郭子儀の引退によりその支配下[弟の子日+胃が名目節度使です]より吳希光に分担し、都団練観察使に格下げされました。

⑤.建中四年[783]復置渭北節度,如上元之舊,尋罷。未幾復置,徙治鄜州,其後置都團練觀察防禦使
西川節度使崔寧が朔方等とともに管轄し、その留後として李建徽が担当しました。治所は反乱した李懷光や朱泚から遠い鄜州に移ったもようです。いろいろの制度変更の背景は不明ですが、奉天の乱の混乱によると見られます。乱時、鄜坊は弱体ですがほぼ唐朝に従っていました。

⑥.貞元三年[787]復置渭北節度使,以綏州隸銀夏節度
夏綏銀節度使が設置されたため綏州が管轄から分離しました。

⑤.元和元年[806]析丹州置防禦使
弱小方鎭であり、中央より順調に神策系の武将が赴任し、特に軍乱は見られませんでした。
宣宗~僖宗にかけて沙陀や黨項などが勢力を拡大する地域でした。

⑧.中和二年[882]渭北節度賜號保大軍節度,增領翟州,以延州置保塞軍節度黄巣の京師占拠に対して、節度使李孝昌・東方逵などが討伐に参加しましたが、弱小軍のためあまり影響はないようです。
翟州は唐末に鄜州の鄜城県を分離して置いた州です。延州を分離する代替として名目上領州を増やしただけでしょう。
光啓年間より夏綏・延州節度とともに黨項系の拓跋氏[思孝-思敬]が占拠する地となり、やがて鳳翔李茂貞の支配下に移りました。
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