唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀二十~二十三年 西暦646~49

2020-05-16 10:03:46 | Weblog
貞觀二十年 西暦646
-------------------------------------
二月甲午,從伐高麗無功者,皆賜勳一轉。
高麗遠征の失態に、軍人達の不満が高まったため慰撫策をとりました。

三月己丑,宰相張亮謀反,伏誅。
失敗により太宗は疑心暗鬼になっていたのか、亮が養假子五百人を使って謀叛を企てているという誣告を信じ、ろくに調べもせず誅殺しました。

六月乙亥,江夏郡王道宗、李世勣伐薛延陀。
七月李世勣及薛延陀戰,敗之。
多彌可汗は諸部を統率できず、唐朝軍の攻撃もあり敗死し、薛延陀は北邊の覇権を失いました。

九月甲辰,鐵勒諸部請上號為「可汗」。
薛延陀崩壊後、主導権を持った鐵勒が太宗を祭り上げました。

十月、元宰相蕭瑀を貶商州刺史。
瑀は梁皇族出身で、唐初より宰相として太宗と親しかった人物ですが、名門貴族出身の矜持が高く博学雄弁であったので、太宗や他の宰相達と衝突することも多く、何度も罷免されては起用されることを繰り返してきました。瑀は仏教の篤い信者で、致仕して出家することを望みましたが、心細くなってきた太宗は許そうとはしませんでした。ところがあくまで固執する瑀に腹を立てて、國公の爵も實封も奪い左遷したわけです。

貞觀二十一年 西暦647
-------------------------------------
正月壬辰,高士廉薨。
太宗の太子時代からの重臣達が次々と死んでいきます。

三月戊子,牛進達,李世勣,率三總管兵以伐高麗。
高麗に未練がある太宗は征討を続けますが、民力が疲弊するだけで実効はありません。

五月壬辰,命百司決事于皇太子。
体力気力とも衰えた太宗は皇太子[高宗]に政治を委ねますが、軟弱な太子に憂慮しています。

十二月戊寅,契苾何力,率三總管兵以伐龜茲。
焉耆より更に遠隔地の龜茲を討ち、西域に勢力を拡大していきます。

貞觀二十二年 西暦648
-------------------------------------
正月丙午,左武衛大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管,以伐高麗。
まだ諦めてはいません。

七月癸卯,房玄齡薨。
元老玄齡が死に、長孫無忌だけが残り、高宗を支えることになります。

貞觀二十三年 西暦649
-------------------------------------
正月辛亥,阿史那社爾俘龜茲王以獻。
西域では唐朝軍は将も兵も蕃軍が中心となっています。

五月戊午,貶李勣為疊州都督。
太宗は勣[唐初からの武将]を深く信任しているはずでしたが、突如として理由無く左遷しました。勣が皇太子[高宗]から恩を受けていないので、一度追放[従順でなければ殺す]し、太子がまた再任用すれば有り難がるだろうという猿芝居を企画したのです。勣は太宗の信任を信じていたので深く傷ついたようです。

五月己巳,皇帝崩于含風殿,年五十三。

太宗はどちらかといえば隋煬帝と同様気まぐれな暗君で、うち続く外征により唐朝を疲弊させ、国力は回復していませんでした。ただ有能な将や軍団によりたいていの外征に勝利したことによって国運を繋いでいました。また自分が無学であることは自覚し、魏徴・王珪・馬周・褚遂良などの諫臣を登用し、内政においては無理をしませんでした。そして彼らが礼賛して「貞觀の治」というフィクションを作り上げたわけです。