唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

咸通九~十年 西暦868~69

2020-05-05 10:00:03 | Weblog
咸通九年 西暦868
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六月、邛州刺史充定邊軍節度眉蜀邛雅嘉黎等州觀察統押諸蠻並統領諸道行營制置等使を置いた。
李師望が雲南蠻が要地である西川に入寇することを防ぐ専用の節度使[西川の西部を切り取った広大な地域]を提案し認められた。しかし現地の実情に合わない紙上の空論であった。

七月,武寧軍節度糧料判官龐勳反于桂州。
嶺南道では雲南蠻の侵攻に対する防禦の援軍として、悪名高い武寧軍の残党を徴募して、治安の維持と防衛の両立を図っていた。徐泗観察使は二千名を三年契約で派遣していたが、觀察使崔彥曾は交代経費を惜しんで六年たっても交代させなかった。桂州にいた八百人の兵士は望郷の思いに耐えかねて都將を殺し、判官龐勳をリーダーとして徐州に帰ろうとした。嶺南の諸軍は弱体なうえ、思いは同じなのでこれを討とうとするものはいなかった。

十月庚午,陷宿州。丁丑,陷徐州,觀察使崔彥曾死之。
途次何度も討伐する機会はあったが、違約しているのは唐朝側という引け目もあり遷延していたが、宿州にたどりついた龐勳軍には参加する者も多く、討伐軍は敗北し乱は一気に広がった。
新紀では彥曾は殺害されたと書いてあるが、実際は幽閉され、殺害はもっと後である。

十一~十二月,龐勳陷濠、和、滁州。
淮南にはろくな兵備がなく州縣は次々と陥ちた。

十一月康承訓が,王晏權や,戴可師、馬舉,曹翔などの神策軍を率いて討伐することになった。
腐敗した唐朝軍であるので、将軍の名簿はともかく、なかなか実働軍が揃わず。本来雑軍であるはずの龐勳軍が優勢だった。さすがに動員が進むと包囲網が形成された。

咸通十年 西暦869
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正月丁卯,同昌公主適右拾遺韋保衡。
公主は懿宗とその愛妻郭妃の最愛の娘である。これにより保衡はまたたくまに宰相に駆け上がる。

九月癸酉,龐勳伏誅。
承訓は大軍を動員しやっと勳を追討することがで来た。しかし山東は荒廃し、唐末の大乱の原因となっていった。

十月、康承訓為河東節度使同平章事
手際はよくなかったが、平定の恩賞である。しかし十一年正月には韋保衡等に讒言され失脚し左遷されることになった。これは軍人の間に唐朝への不信感を招き、真面目に討伐しようという気持を失わせる原因となった。

十二月壬子,雲南蠻寇嘉州。
龐勳の乱がすんで間もなく、定邊軍は雲南蠻に攻撃されるとたちまち崩壊し、成都外郭までが陥落した。
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