永徽五年 西暦654
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六月癸亥,中書令柳奭罷為吏部尚書。
王皇后は高宗の寵愛はもともとなく、蕭妃や武昭儀が寵愛を受けていました。そのため王皇后派の奭は宰相を辞して難を逃れようとしました。ですが結局地方へ左遷されることになりました。
高宗の武昭儀への寵愛は増し、王皇后を廃位して武氏を立てようとしました。しかし長孫無忌以下宰相達の同意は得られず、気弱な高宗は押し切ることができませんでした。
永徽六年 西暦655
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二月乙丑,營州都督程名振、左衛中郎將蘇定方伐高麗。
五月壬午,及高麗戰于貴端水,敗之。
太宗の遺志を継いで高宗も高麗討伐を継続した。今回は高麗が百済と組んで唐朝方の新羅を攻撃したため征討したものです。
七月中書舍人李義府為中書侍郎,參知政事。
義府は無忌に嫌われ[貴族である無忌にとって、地方からの成り上がりの義府は気にくわなかったのでしょう]地方左遷されると知った義府は、武昭儀の立后を願いでて、高宗と武氏に迎合しました。そして左遷どころか宰相に昇格することができました。
九月庚午,貶褚遂良為潭州都督。
宰相無忌・褚遂良・韓瑗・來濟は武氏立后に反対し、特に遂良は強硬でしたので追放されました。于志寧は沈黙し、李勣は高宗に迎合しました。
十月,己酉,廢王皇后為庶人。乙卯,立宸妃武氏為皇后。
武氏は義府や許敬宗・崔義玄等を結集し、長孫派を押し切って、優柔不断な高宗にやっと決断させました。
顯慶元年 西暦656
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正月辛未,廢皇太子忠為梁王,立代王弘為皇太子。
王后・長孫派の忠が廃位され、武后の生んだ弘が太子となりました。
八月辛丑,程知節及賀魯部歌邏祿、處月戰于榆慕穀,敗之。
癸未,程知節及賀魯戰於怛篤城,敗之。
西域では西突厥賀魯との長期の戦闘が続いていました。
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六月癸亥,中書令柳奭罷為吏部尚書。
王皇后は高宗の寵愛はもともとなく、蕭妃や武昭儀が寵愛を受けていました。そのため王皇后派の奭は宰相を辞して難を逃れようとしました。ですが結局地方へ左遷されることになりました。
高宗の武昭儀への寵愛は増し、王皇后を廃位して武氏を立てようとしました。しかし長孫無忌以下宰相達の同意は得られず、気弱な高宗は押し切ることができませんでした。
永徽六年 西暦655
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二月乙丑,營州都督程名振、左衛中郎將蘇定方伐高麗。
五月壬午,及高麗戰于貴端水,敗之。
太宗の遺志を継いで高宗も高麗討伐を継続した。今回は高麗が百済と組んで唐朝方の新羅を攻撃したため征討したものです。
七月中書舍人李義府為中書侍郎,參知政事。
義府は無忌に嫌われ[貴族である無忌にとって、地方からの成り上がりの義府は気にくわなかったのでしょう]地方左遷されると知った義府は、武昭儀の立后を願いでて、高宗と武氏に迎合しました。そして左遷どころか宰相に昇格することができました。
九月庚午,貶褚遂良為潭州都督。
宰相無忌・褚遂良・韓瑗・來濟は武氏立后に反対し、特に遂良は強硬でしたので追放されました。于志寧は沈黙し、李勣は高宗に迎合しました。
十月,己酉,廢王皇后為庶人。乙卯,立宸妃武氏為皇后。
武氏は義府や許敬宗・崔義玄等を結集し、長孫派を押し切って、優柔不断な高宗にやっと決断させました。
顯慶元年 西暦656
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正月辛未,廢皇太子忠為梁王,立代王弘為皇太子。
王后・長孫派の忠が廃位され、武后の生んだ弘が太子となりました。
八月辛丑,程知節及賀魯部歌邏祿、處月戰于榆慕穀,敗之。
癸未,程知節及賀魯戰於怛篤城,敗之。
西域では西突厥賀魯との長期の戦闘が続いていました。