咸通五年 西暦864
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正月丙午,雲南蠻寇嶲州。三月,寇邕州。
唐朝軍は雲南蠻に大敗したが、節度使康承訓は破ったと上奏した。
咸通六年 西暦865
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五月,高駢及雲南蠻戰於邕州,敗之。
新紀・旧紀ではという記録である。通鑑では九月で場所も違う。
咸通七年 西暦866
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三月,成德軍節度使王紹懿卒,其兄子景崇自稱留後。
成德では王氏が安定した世襲[廷湊-元逵-紹鼎-紹懿-景崇と続く]している。もはや唐朝は追認するだけである。
六月,魏博節度使何弘敬卒,其子全皞自稱留後。
同じく魏博でも何氏世襲[進滔-弘敬-全皞]で唐朝ノータッチだが、こちらは不安定である。
十月壬申,宰相楊收罷。
この当時の宰相は宦官と結託して収賄・売官につとめていた。收も宦官楊玄價等と結託していたが要求に十分応えなかったので追放されたのである。
十月,高駢克安南。
宦官李維周に讒言されて罷免され王晏權に交代させされたが、遠隔地のためすぐは伝わらず、駢は力戦して雲南蠻を大破し、安南都護府を奪回した。そして維周を避けて上奏した。懿宗皇帝は喜んで駢を安南節度に再任した。
咸通八年 西暦867
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七月乙巳,懷州民亂,逐其刺史劉仁規。
軍乱や賊による乱はよくあるが、乱政による民乱はめずらしい。旱天による訴えを無視したためである。
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正月丙午,雲南蠻寇嶲州。三月,寇邕州。
唐朝軍は雲南蠻に大敗したが、節度使康承訓は破ったと上奏した。
咸通六年 西暦865
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五月,高駢及雲南蠻戰於邕州,敗之。
新紀・旧紀ではという記録である。通鑑では九月で場所も違う。
咸通七年 西暦866
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三月,成德軍節度使王紹懿卒,其兄子景崇自稱留後。
成德では王氏が安定した世襲[廷湊-元逵-紹鼎-紹懿-景崇と続く]している。もはや唐朝は追認するだけである。
六月,魏博節度使何弘敬卒,其子全皞自稱留後。
同じく魏博でも何氏世襲[進滔-弘敬-全皞]で唐朝ノータッチだが、こちらは不安定である。
十月壬申,宰相楊收罷。
この当時の宰相は宦官と結託して収賄・売官につとめていた。收も宦官楊玄價等と結託していたが要求に十分応えなかったので追放されたのである。
十月,高駢克安南。
宦官李維周に讒言されて罷免され王晏權に交代させされたが、遠隔地のためすぐは伝わらず、駢は力戦して雲南蠻を大破し、安南都護府を奪回した。そして維周を避けて上奏した。懿宗皇帝は喜んで駢を安南節度に再任した。
咸通八年 西暦867
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七月乙巳,懷州民亂,逐其刺史劉仁規。
軍乱や賊による乱はよくあるが、乱政による民乱はめずらしい。旱天による訴えを無視したためである。