唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

弘道元年~光宅元年 西暦683~84年

2020-05-27 10:01:43 | Weblog
中宗前記
顯慶元年生まれのため名前は「顯」、父高宗に似て小心凡庸で決断力に欠けています。
いろいろな封爵・官職に任命されましたが全てお飾りです。
哲と改名、永隆元年兄賢が廃された後皇太子になります。
弘道元年十二月即位時27歳。母武后が称制として実権を持っています。
妻は韋氏。前妻趙氏は母が高宗と親しかったため武后に殺されています。

弘道元年 西暦683年
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十二月丁巳,大帝崩,皇太子顯即位
実権は武后が握っているので即位自体はスムーズです。

十二月庚午,韓王元嘉為太尉,霍王元軌為司徒,舒王元名為司空。
武后の専権を懼れる皇族の有力者を名誉職に就けて慰撫しました。


嗣聖/文明/光宅元年 西暦684年
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正月甲申朔,改元「嗣聖」。
即位翌年の通例の改元です。

正月、立太子妃韋氏為皇后、擢後父玄貞自普州參軍為豫州刺史。
小心な中宗は、妻の韋氏の尻の下に敷かれていいなりです。武后も自分の覚えがあるので忌々しいかぎりではあるようですが。韋后父の玄貞はたいした人物ではありませんが昇進しました。

正月癸巳,中宗欲以韋玄貞為侍中。
中宗は玄貞を宰相に任用しようとし、宰相裴炎達に制止されると「玄貞を皇帝にだってできるのだ」と言い放ち炎を呆れさせました。炎は武后に注進します。

二月戊午,武后は中宗を廃位して、廬陵王に落としました、中宗は事態が理解できないようでした。

二月己未,豫王旦為皇帝。妃劉氏為皇后。
宰相や臣下からの異論はでませんでした。豫王旦[睿宗]が即位しましたが実権はまったくないお飾りでした。

二月壬子,睿宗の子成器為皇太子としました。改元「文明」
皇帝が変わったことを示す改元です。

二月庚申,流韋玄貞于欽州。
玄貞一族は流され殺されました。

三月,太后命左金吾將軍丘神勣詣巴州,殺故太子賢宅。
廃太子賢は殺されました。賢の子達は殺されませんでしたが長く幽囚されます。

閏五月以禮部尚書武承嗣[武后の甥]を宰相にしました。
一度排斥した一族からの再任用です。しかしすぐ解任しました。

九月甲寅,改元「光宅」。官名旗幟を大きく変更しました。
東都→神都,尚書省→文昌台,六部→天、地、四時六官、門下省→鸞台,中書省→為鳳閣などです。武后好みの形式の変更です。

九月丁丑,柳州司馬李敬業舉兵揚州。
敬業は勣の孫[子は早死]で、武后により眉州刺史より左遷されていました。また揚州には左遷された者が多く集まり、武后に対する反感と不満が結集していたため反乱はたちまち拡大しました。

十月甲申,李孝逸,李知十等率兵三十萬以討李敬業。
孝逸は皇族です。まだこの時点では武后の簒奪を予期しておらず、やがて「睿宗」の時代がくると考えていたようです。

十月丙申,武后殺宰相裴炎。
炎は中宗の廃位を提言した人物ですが、敬業の乱が広がると、武后に「解決策としては、后が退いて、睿宗に実権を戻すことです」と提言して怒りをかい殺されました。

十一月乙丑,徐敬業將王那相殺敬業降。
唐朝軍が本格的に征討すれば反軍など容易に征討できますが、あまり士気は高くなく手間取ったようです。「徐」は李勣が功績により賜姓されたものが剥奪されたためです。

十二月癸卯,殺單于道安撫大使程務挺。
裴炎を庇ったために殺されました。名将の誅殺に苦手にしていた突厥は大喜びでした。
コメント
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