乾封元年 西暦666
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正月庚午,泰山封禪於社首,以皇后為亞獻。
封禪時、皇帝の次に武后が献上しその権威を天下に示しました。
六月壬寅,高麗泉男生請内附,契苾何力為遼東安撫大使,率兵援之。
龐同善、高偘,薛仁貴、李謹行為後援。
高麗では蓋蘇文が死に、長男の男生と弟男建、男產が争い、敗北した男生は唐朝に助けを求めた。今までどうにもできなかった高麗を攻撃するチャンスがうまれたわけです。
八月丁未,殺始州刺史武惟良、淄州刺史武懷運。
武后は自分の母楊氏[武士彠の後妻]に冷たかった武氏一族に恨みがあり、気に入らない前妻子孫を誅殺したり流罪として報復しました。
十二月己酉,李勣為遼東道行台大總管,率六總管兵以伐高麗。
形勢が有利に傾き勣が総帥となり高麗を征討することになりました。
乾封二年 西暦667
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九月辛未,李勣及高麗戰於新城,敗之。
それでも高麗は健闘しなかなか征討は進みませんでしたが、反軍と連携ができてきました。
乾封三年/總章元年 西暦668
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二月壬午,李勣敗高麗,克扶餘、南蘇、木底、蒼岩城。
高麗の崩壊が始まりました。
九月癸巳,李勣拔平壤。敗高麗王高藏,執之。
ついに太宗以来の願望である高麗平定が実現できました。滅亡原因は内訌です。
總章二年 西暦668
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七月癸巳,左衛大將軍契苾何力為烏海道行軍大總管,以援吐谷渾。
吐蕃が隣国の吐谷渾[とよくこん]を攻撃します。形勢不利な吐谷渾は唐朝に助けを求めました。
十二月戊申,李勣薨。
残った功臣の勣も死に、武后を制する者はいなくなりました。
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正月庚午,泰山封禪於社首,以皇后為亞獻。
封禪時、皇帝の次に武后が献上しその権威を天下に示しました。
六月壬寅,高麗泉男生請内附,契苾何力為遼東安撫大使,率兵援之。
龐同善、高偘,薛仁貴、李謹行為後援。
高麗では蓋蘇文が死に、長男の男生と弟男建、男產が争い、敗北した男生は唐朝に助けを求めた。今までどうにもできなかった高麗を攻撃するチャンスがうまれたわけです。
八月丁未,殺始州刺史武惟良、淄州刺史武懷運。
武后は自分の母楊氏[武士彠の後妻]に冷たかった武氏一族に恨みがあり、気に入らない前妻子孫を誅殺したり流罪として報復しました。
十二月己酉,李勣為遼東道行台大總管,率六總管兵以伐高麗。
形勢が有利に傾き勣が総帥となり高麗を征討することになりました。
乾封二年 西暦667
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九月辛未,李勣及高麗戰於新城,敗之。
それでも高麗は健闘しなかなか征討は進みませんでしたが、反軍と連携ができてきました。
乾封三年/總章元年 西暦668
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二月壬午,李勣敗高麗,克扶餘、南蘇、木底、蒼岩城。
高麗の崩壊が始まりました。
九月癸巳,李勣拔平壤。敗高麗王高藏,執之。
ついに太宗以来の願望である高麗平定が実現できました。滅亡原因は内訌です。
總章二年 西暦668
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七月癸巳,左衛大將軍契苾何力為烏海道行軍大總管,以援吐谷渾。
吐蕃が隣国の吐谷渾[とよくこん]を攻撃します。形勢不利な吐谷渾は唐朝に助けを求めました。
十二月戊申,李勣薨。
残った功臣の勣も死に、武后を制する者はいなくなりました。