貞觀元年 西暦627
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正月乙酉,改元「貞觀」。
即位した翌年改元するのは通例である。
正月辛丑,燕郡王李藝反於涇州,伏誅。
羅藝[賜姓されて李]は幽州を以って唐朝に帰した功臣で、一貫して軍功を上げていたが、建成に近く、太宗とは良くなかったため殺された。
四月癸巳,涼州都督、長樂郡王幼良有罪,伏誅。
前年の幽州盧江王に引き続く反太宗派皇族の粛清。
五月、苑君璋帥衆來降。
北邊で突厥に付いていた君璋も、唐国内が治まってきたのをみて配下に勧められ帰順してきた。
六月辛丑,封德彝薨。
德彝は煬帝を弑殺した宇文化及の党であり、札付きの佞臣だつたが、宇文士及とともに有能であったため唐朝でも重用されていた。
秋,突厥は大雪で,雜畜が多く死に,饑饉も続き疲弊した
太宗は前年の恥を思い、兵備につとめ突厥への攻撃を謀っていた。
九月、辛未,幽州都督王君廓謀叛,道死。
前年、君廓は反世民派の皇族幽州都督盧江王瑗を挑発して反死させたが、太宗が今度は自分を除こうとしていると思い逃走したが殺された。
十二月戊申,利州都督李孝常、右武衛將軍劉德裕謀反,伏誅。
反太宗派軍人の粛清である。
貞觀二年 西暦628
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正月辛亥,長孫無忌罷。
太宗の皇后長孫氏は、外戚である無忌が、政争に巻き込まれやすい宰相職にあることを喜ばず解任することを求めた。
四月壬寅,朔方人梁洛仁殺梁師都以降。
北邊で最後まで突厥に附いていた師都だが、周辺は唐朝への帰属を望み、従わない師都を殺して帰属してきた。
六月辛卯,辰州刺史裴虔通等五名以弑隋煬帝削爵,流驩州。
虔通等は隋煬帝が殺されたとき、中堅将校として加わっていた。それから10年以上も経ち、突然それまでの唐朝への功績を無視され弑殺の罪で流罪となった。最悪のはずの宇文化及の弟士及は太宗と親しかったためなんの処罰もされなかった。
十月戊子,殺瀛州刺史盧祖尚。
太宗は、有能な祖尚を廣州都督に任じたが、老齢のため暑熱の地へ行くことを断ったため殺した。
この歳、突厥から薛延陀が自立しその長である夷男が可汗を称した。
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正月乙酉,改元「貞觀」。
即位した翌年改元するのは通例である。
正月辛丑,燕郡王李藝反於涇州,伏誅。
羅藝[賜姓されて李]は幽州を以って唐朝に帰した功臣で、一貫して軍功を上げていたが、建成に近く、太宗とは良くなかったため殺された。
四月癸巳,涼州都督、長樂郡王幼良有罪,伏誅。
前年の幽州盧江王に引き続く反太宗派皇族の粛清。
五月、苑君璋帥衆來降。
北邊で突厥に付いていた君璋も、唐国内が治まってきたのをみて配下に勧められ帰順してきた。
六月辛丑,封德彝薨。
德彝は煬帝を弑殺した宇文化及の党であり、札付きの佞臣だつたが、宇文士及とともに有能であったため唐朝でも重用されていた。
秋,突厥は大雪で,雜畜が多く死に,饑饉も続き疲弊した
太宗は前年の恥を思い、兵備につとめ突厥への攻撃を謀っていた。
九月、辛未,幽州都督王君廓謀叛,道死。
前年、君廓は反世民派の皇族幽州都督盧江王瑗を挑発して反死させたが、太宗が今度は自分を除こうとしていると思い逃走したが殺された。
十二月戊申,利州都督李孝常、右武衛將軍劉德裕謀反,伏誅。
反太宗派軍人の粛清である。
貞觀二年 西暦628
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正月辛亥,長孫無忌罷。
太宗の皇后長孫氏は、外戚である無忌が、政争に巻き込まれやすい宰相職にあることを喜ばず解任することを求めた。
四月壬寅,朔方人梁洛仁殺梁師都以降。
北邊で最後まで突厥に附いていた師都だが、周辺は唐朝への帰属を望み、従わない師都を殺して帰属してきた。
六月辛卯,辰州刺史裴虔通等五名以弑隋煬帝削爵,流驩州。
虔通等は隋煬帝が殺されたとき、中堅将校として加わっていた。それから10年以上も経ち、突然それまでの唐朝への功績を無視され弑殺の罪で流罪となった。最悪のはずの宇文化及の弟士及は太宗と親しかったためなんの処罰もされなかった。
十月戊子,殺瀛州刺史盧祖尚。
太宗は、有能な祖尚を廣州都督に任じたが、老齢のため暑熱の地へ行くことを断ったため殺した。
この歳、突厥から薛延陀が自立しその長である夷男が可汗を称した。