唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

至德三年/乾元元年 西暦758年

2020-06-09 10:00:00 | Weblog
至德三年/乾元元年 西暦758年
------------------------------------------------------
正月戊寅,上皇天帝御宣政殿,授皇帝傳國、冊號曰光天文武大聖孝感皇帝。乙酉,出宮女三千人。
正式に玄宗から肅宗に皇帝位が渡されたわけです。この時点で宮女が三千人もいたはずはありません、白髪三千丈のホラでしょう。

三月戊寅,立淑妃張氏為皇后。
肅宗を影で操っていた張氏が皇后となりました。この時点では宦官李輔國は皇后の味方でした。

四月史思明殺范陽節度副使烏承恩以反。
唐朝には宦官や李光弼等、史思明の歸順を信用しない党派があり、動揺している思明を挑発して反乱させました。安慶緒がまだ存在している時点としては極めて軽率な行動でした。

五月戊子,張鎬罷。乙未,崔圓、李麟罷。王璵為中書侍郎、同中書門下平章事。
無能で鬼神を好む肅宗は戦乱が終息していると判断しました。武闘派の宰相達を罷免し、禮儀祭典を主とする王璵を宰相としました。

七月丁亥,冊命回紇可汗曰英武威遠毘伽闕可汗,以上幼女寧國公主妻之。
前年の支援の恩賞に不満を持つ回紇に公主を与えて宥めました。

九月庚寅,郭子儀率李光弼、李嗣業、王思禮、魯炅、李奐、許叔冀、董秦、季廣琛以討安慶緒。安慶緒を征討するためです。郭子儀率とあるが彼は指揮官ではありません。兵事を知らない肅宗は統帥権を誰にも与えず雑然とした軍を送りました。宦官魚朝恩が觀軍容宣慰使として監軍となりました。今回は回紇軍は少数しか参加しませんでした。

九月癸巳,大食、波斯寇廣州。
わけのわからない記述です。大食[サラセン]波斯[ペルシア]から遣ってきた商人達でしょう。

十月甲辰,立成王俶為皇太子。
張皇后の子は幼く、戦時の皇太子としては無理でした。しかし太子の地位は不安定でした。

十一月壬申,王思禮及安慶緒戰於相州,敗之。
慶緒軍内も混乱し、人望有る蔡希德は殺され、厳格な崔乾祐が指揮をとることになり振いませんでした。唐朝軍は相州に慶緒を包囲した。慶緒は必死に思明に来援を求めました。

十二月丁卯,史思明陷魏州。
思明は来援し魏州を落とし、唐朝軍と対峙しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする