唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淄青 李師道の乱 2

2023-01-01 08:08:57 | Weblog
元和13年5月
忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道征討の先鋒としました。

河陽都知兵馬使曹華は棣州刺史とし商河縣へ到り、来寇した淄青兵を破り商河を復し、橫海節度副使を加えられました。

元和13年7月
師道の官爵を削り、宣武韓弘、魏博田弘正、義成李光顔、武寧李愬、橫海等五鎮に征討を命じました
宣歙觀察使王遂が兵站支援の供軍使です。

元和13年9月
宣武韓弘は自ら曹州を囲みました。

元和13年10月
左金吾衛大將軍薛平が義成軍節度使となり、李光顔は忠武軍節度使に戻りました。やはり自軍のほうが扱いやすかったようです。

元和13年11月
河陽節度使鳥重胤を滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とし進出させました。

魏博田弘正は全軍を率いて楊劉より黄河を渡り鄆州[淄青の主邑]を攻めました。淄青軍は動揺しました。

元和13年12月
李愬の請願により淮西の降將春州司戸董重質を武寧軍驅使として登用しました。

元和14年正月
武寧李愬は兗州金鄉を陥しました。師道は不利な報告を聞こうとしませんでした。

魏博軍は淄青兵を鄆州東阿・陽谷に大破しました。

宣武韓弘は曹州考城を陥しました。

元和14年2月
楚州刺史李聽は海州を攻め、東海、朐山、懷仁等縣を陥しました。

武寧李愬は淄青軍を沂州に破り、丞縣を陥しました。

師道は淄青都知兵馬使劉悟[正臣孫]を魏博軍に対峙させていましたが不利でした。師道は悟に不信を抱き殺そうですが、悟は先手をうって反し、鄆州城に突入し師道一族を殺しました。

劉悟は淄青継承を望んでいたようですが、朝廷は許さず義成軍節度使に任じました。

淄青十二州は解体され、淄青齊登來と兗海沂密と鄆曹濮の三道に分割され唐朝の支配下に入りました。
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