唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永王璘の乱

2023-01-29 08:16:24 | Weblog
玄宗の子永王璘は幼くして母を失い、哀れんだ兄の肅宗皇帝に愛育されていました。好学でしたが容貌は冴えませんでした。安史の乱が発生しました。

至徳元年7月
諸王が各地に分遣され、璘は領荊州大都督領山南、江西、嶺南、黔中四道節度使となりました。それまで諸王は実任にはつかず京師の「十王宅」に常住していましたが、始めて地方に赴任したわけです。

世間知らずの璘は荊南江陵に至り、江淮の租賦が山積しているのを見て舞い上がり、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗などの軽薄な取り巻きの指嗾に乗って江淮で自立しようと思い立ちました。

至德元年11/12月
そして舟師を東下させ、渾惟明、季廣琛、高仙琦を將として淮南揚州を取ろうとし、採訪使李成式を攻めました。

吳郡採訪使李希言は將元景曜・李承慶・丹徒太守閻敬之・を派遣しましたが、璘軍將渾惟明に敗れ、敬之は敗死し、景曜、承慶は降りました。

淮南節度使高適・淮西節度使來瑱・江東節度使韋陟が安陸に合し璘を伐つことを誓いました。

至徳2年正月
璘は鄱陽郡を陥しました。

至德2年2月
河北招討判官李銑は、成式將裴戎・李承慶と伊婁埭に迎撃しました。
本格的な軍容をみて、璘將渾惟明、季廣琛、馮季康は動揺し投降しました。
李銑は新豐に璘軍を破り、璘は鄱陽へ奔りましたが、江西采訪使皇甫侁に殺されました。

ところが肅宗は「皇族ため璘を濫りに殺した」と侁を批判したとのことです。