夏綏節度使韓全義は淮西吳少誠征討で大敗し、ほうほうの体で逃げ帰りましたが、もうろくした德宗皇帝は宦官達に丸め込まれて功績があったとしていました。しかし皇帝以外は全義の失態を記憶していました。德宗が崩御し、順宗・憲宗皇帝が即位すると全義は観念し、処罰されない間に帰朝しようと考えました。
永貞元年8月
憲宗皇帝の即位に合わせて全義は入朝しました。留後は甥の楊惠琳に任せました。
永貞元年11月
左驍衛將軍李演が夏州刺史夏綏銀等州節度使となり、全義は太子少保として致仕を許されました。全義としては責を問われることがなく引退できたわけです。
ところが楊惠琳は、德宗皇帝時代の姑息な継承例により、乱をおこせばなんとかなると思っていたようです。憲宗皇帝は夏綏のような自立の出来ない弱小方鎭にそのようなことを認めるつもりはありませんでした。
元和元年3月
李演は河東・天德軍を率い夏州を攻め、たちまち夏州兵馬使張承金は惠琳を斬り降りました。
永貞元年8月
憲宗皇帝の即位に合わせて全義は入朝しました。留後は甥の楊惠琳に任せました。
永貞元年11月
左驍衛將軍李演が夏州刺史夏綏銀等州節度使となり、全義は太子少保として致仕を許されました。全義としては責を問われることがなく引退できたわけです。
ところが楊惠琳は、德宗皇帝時代の姑息な継承例により、乱をおこせばなんとかなると思っていたようです。憲宗皇帝は夏綏のような自立の出来ない弱小方鎭にそのようなことを認めるつもりはありませんでした。
元和元年3月
李演は河東・天德軍を率い夏州を攻め、たちまち夏州兵馬使張承金は惠琳を斬り降りました。