幽州節度使李載義を逐って自立した楊志誠ですが、節度使となった後も反唐朝姿勢を取り、与えられた官爵に不平を言い、使節を抑留したりしていました。
大和8年9/10月
幽州節度使楊志誠と監軍李懷仵は牙軍に逐われ、將史元忠が自立しました。原因はよくわかりません。
志誠は京師へ遁走しました。
志誠一行は河東太原を通過しましたが、朝廷優遇され河東節度使となっていた前使李載義に襲撃され、本人は助命されましたが、妻子や從っていた將士は殺されました。
専殺ということになりますが朝廷は載義の功を考えて不問にしました。
載義は逐われたことや、母兄の墓を暴かれた恨みがあり、志誠を殺す事をあくまで願いました。
大和8年11月
京師で志誠は糾問され、史元忠の告発により、節度使時代に皇帝を真似ていたことから流罪となり、途次殺されました。
大和8年12月
通王を幽州盧龍節度使とし、權勾當幽州兵馬史元忠を留後とし、やがて節度使に昇任させました。
大和8年9/10月
幽州節度使楊志誠と監軍李懷仵は牙軍に逐われ、將史元忠が自立しました。原因はよくわかりません。
志誠は京師へ遁走しました。
志誠一行は河東太原を通過しましたが、朝廷優遇され河東節度使となっていた前使李載義に襲撃され、本人は助命されましたが、妻子や從っていた將士は殺されました。
専殺ということになりますが朝廷は載義の功を考えて不問にしました。
載義は逐われたことや、母兄の墓を暴かれた恨みがあり、志誠を殺す事をあくまで願いました。
大和8年11月
京師で志誠は糾問され、史元忠の告発により、節度使時代に皇帝を真似ていたことから流罪となり、途次殺されました。
大和8年12月
通王を幽州盧龍節度使とし、權勾當幽州兵馬史元忠を留後とし、やがて節度使に昇任させました。