邠寧軍は郭子儀の朔方軍の系列を引き、朔方軍・河中軍が形骸化した後も、吐蕃防衛の前線として關内道で最大の武力を維持していました。
韓游瓌
奉天の乱に邠寧を継承した韓游瓌は、貞元3.10子の欽緒が李廣弘の乱に参加したことから軍内で権威を失い、德宗皇帝に媚びて留任はしましたが、立場が不安定になったことを自覚していました。
①貞元4年正月
遊瓌は豐義城を築いて吐蕃防衛にあたることを德宗に約束していたのですが、軍中の人望は既に都虞候虞鄉范希朝に移っていました。遊瓌は希朝を殺そうとしましたが、希朝は逃げ、左神策軍の将となりました。
遊瓌は豐義築城を強行しましたが、將士の協力は得られず失敗しました。
貞元4年6月
遊瓌は病と称して辞職し、後任の交代をまたずに京師に奔りました。
貞元年7月
朝廷は左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使としましたが、戍卒裴滿等は獻甫が邠寧軍の出身でなく、厳酷だという評判から蜂起し監軍楊明義にも范希朝を後任とするよう要求しました。都虞侯楊朝晟はこれを鎮圧しました。德宗は希朝を寧州刺史とし獻甫の副として事を収めました。
貞元12年5月
節度使張獻甫が卒しました。監軍楊明義は実力者の都虞候楊朝晟を留後としましたので乱は起きません。
②貞元17年5月
節度使楊朝晟が卒しました。
朝晟は寧州刺史劉南金を推し、將士もそれを支持していましたが、朝廷は神策軍の定平鎮兵馬使李朝寀を後任とし、南金を副としました。都虞候史經等は不満で蜂起し、南金に迫りましたが応じないので殺し、兵馬使高固を立てました。やむをえず德宗皇帝は固を節度使としました。
高固は元和2引退して統軍となり、その後は劉闢を征討した西川高崇文が入り軍容は安定していきました。
韓游瓌
奉天の乱に邠寧を継承した韓游瓌は、貞元3.10子の欽緒が李廣弘の乱に参加したことから軍内で権威を失い、德宗皇帝に媚びて留任はしましたが、立場が不安定になったことを自覚していました。
①貞元4年正月
遊瓌は豐義城を築いて吐蕃防衛にあたることを德宗に約束していたのですが、軍中の人望は既に都虞候虞鄉范希朝に移っていました。遊瓌は希朝を殺そうとしましたが、希朝は逃げ、左神策軍の将となりました。
遊瓌は豐義築城を強行しましたが、將士の協力は得られず失敗しました。
貞元4年6月
遊瓌は病と称して辞職し、後任の交代をまたずに京師に奔りました。
貞元年7月
朝廷は左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使としましたが、戍卒裴滿等は獻甫が邠寧軍の出身でなく、厳酷だという評判から蜂起し監軍楊明義にも范希朝を後任とするよう要求しました。都虞侯楊朝晟はこれを鎮圧しました。德宗は希朝を寧州刺史とし獻甫の副として事を収めました。
貞元12年5月
節度使張獻甫が卒しました。監軍楊明義は実力者の都虞候楊朝晟を留後としましたので乱は起きません。
②貞元17年5月
節度使楊朝晟が卒しました。
朝晟は寧州刺史劉南金を推し、將士もそれを支持していましたが、朝廷は神策軍の定平鎮兵馬使李朝寀を後任とし、南金を副としました。都虞候史經等は不満で蜂起し、南金に迫りましたが応じないので殺し、兵馬使高固を立てました。やむをえず德宗皇帝は固を節度使としました。
高固は元和2引退して統軍となり、その後は劉闢を征討した西川高崇文が入り軍容は安定していきました。