宣宗皇帝は宦官の擁立により即位したにもかかわらず、その治政への熱心さと、ボス宦官不在のため、宦官の政治関与を抑制していました。しかし皇太子については、三男夔王滋を立てたい思いと、長男鄆王温を排除する理由がないことから躊躇したたま重病となりました。
大中13年8月
宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。
宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。
そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。
もはや皇帝擁立が宦官達の勢力関係により、宰相がなんの関与もできない状態になっています。
大中13年8月
宣宗派の宦官樞密使王歸長や馬公儒等は、右軍中尉王茂玄と図って、夔王滋を擁立しようとしましたが、同意しないであろう左軍中尉王宗實を排除するため、宣宗がすでに逝去しているにもかかわらず、淮南監軍への移動命令を出しました。
宗實は命に従い赴任しようとしましたが、副使亓元實に止められ入内し、宣宗が既に崩御していることを知りました。そして王歸長・馬公儒の行為を責め、長子である鄆王を擁立しました。
そして歸長、公儒等をみな殺しました。夔王は殺されていません。
もはや皇帝擁立が宦官達の勢力関係により、宰相がなんの関与もできない状態になっています。