18歳の敬宗皇帝は低能の不良少年で、ポロ競技やレスリングに熱中し、朝禮政務にはなんの関心もありませんでした。宰相李逢吉達はその馬鹿さ加減に手を焼きながらも、自分達で政治を行えるため放置していました。禁軍や諸道方鎭は競技選手や力士を献上してご機嫌うかがいをし、敬宗はお気に入りの力士達に莫大な賞賜を与えたり、一転して鞭打ち・流罪にしたりとやりたい放題でした。特に宦官達はそのムラ気を懼れていました。
寶暦2年12月
敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。
克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。
事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そして翰林学士韋處厚の提言に従い皇太后の令で謹厳な穆宗次男の江王[文宗]を擁立しました。
残った敬宗側近や力士等を流罪にしました。
寶暦2年12月
敬宗は遊びから帰り、宦官劉克明、田務成、許文端やポロ選手・力士と宴会をしていました。そして便所で劉克明等に殺害されました。
克明等は翰林學士路隋に遺制を書かせ、憲宗六子の絳王悟を擁立しました。
事態を知った宦官主流の樞密使王守澄・楊承和、中尉魏從簡・梁守謙は神策軍を動員して絳王悟、克明等を殺害しました。そして翰林学士韋處厚の提言に従い皇太后の令で謹厳な穆宗次男の江王[文宗]を擁立しました。
残った敬宗側近や力士等を流罪にしました。