淄青・淮西を滅ぼし、成德・魏博・横海・宣武が帰服し、あとは幽州の帰服をまって全国統一に向かっていた元和15年、気の緩んだ憲宗皇帝は道教に凝り、有毒な水銀を含む仙薬服用のため精神障害を起こしていました。そのため政務を執ることが困難となり、百官を憂慮させていました。
親任厚い宦官吐突承璀は、無能な皇太子[穆宗]に代えて賢明な澧王を立てることを薦めていました。
確かに皇太子は遊び人で無能で、それは即位後にはっきりと示されたのですが、母は郭皇后で、外戚はあの郭子儀の子孫で隠然たる影響力を持っているため簡単に廃することができなかったのです。
皇太子は廃されることを懼れ、外戚に対策を相談していました。
元和15年正月
宦官陳弘志が憲宗皇帝、吐突承璀、澧王を殺害したということになっています。しかし弘志だけで実行できるわけもなく、皇太子周辺や反承璀派の宦官勢力など相当な勢力が背後にあったことは間違いありません。ですから弘志は処罰されることもなく監軍として外に出されただけです。
弘志が殺されるのは15年もたった文宗皇帝時代です。
親任厚い宦官吐突承璀は、無能な皇太子[穆宗]に代えて賢明な澧王を立てることを薦めていました。
確かに皇太子は遊び人で無能で、それは即位後にはっきりと示されたのですが、母は郭皇后で、外戚はあの郭子儀の子孫で隠然たる影響力を持っているため簡単に廃することができなかったのです。
皇太子は廃されることを懼れ、外戚に対策を相談していました。
元和15年正月
宦官陳弘志が憲宗皇帝、吐突承璀、澧王を殺害したということになっています。しかし弘志だけで実行できるわけもなく、皇太子周辺や反承璀派の宦官勢力など相当な勢力が背後にあったことは間違いありません。ですから弘志は処罰されることもなく監軍として外に出されただけです。
弘志が殺されるのは15年もたった文宗皇帝時代です。