輔國[護国]は肅宗皇帝が皇太子の頃から仕え、小心で意志薄弱な肅宗を張妃[のち皇后]とともに支えていました。常に肅宗の気持ちを代行していました。
そして判元帥府行軍司馬として兵権を握り、その実権は宰相を凌ぎ、李峴など対立した宰相は罷免されました。
輔國が權を握ると張皇后との関係は悪化していきます。
①上元元年7月
玄宗上皇は京師の民衆の人気がありました。高力士や陳玄禮など多彩な側近が取り巻いていました。肅宗皇帝の疑心を忖度した輔國は兵を率いて上皇を幽閉し、側近達を流罪・引退させました。
上元2年8月
輔國は宦官として最初で最後の兵部尚書となりました。そしてさらに宰相となることを求めます。反対した宰相蕭華は罷免されます。
②寶應元年4月
肅宗皇帝が崩御すると、張皇后は輔國を除こうとして、皇太子适[代宗]に行動を促しますが。适は脅えて逃げます。そのため趙王係を立てようとします。宦官程元振の裏切りによりこれを知った輔國は、皇太子を擁立し張皇后・趙王・兗王を殺しました。代宗皇帝が立ちます。
代宗は輔國を優遇し「尚父」の號を与えました。
輔國は専横となり、代宗に「皇帝は宮中でゆっくりしていればよい、政治は私がやります」と言い放った。
代宗は心中不満であったが、輔國の兵威を畏れてなにもいえなかった。
寶應元年5月
輔國は正任の司空兼中書令として宰相になりました。
輔國は得意満面でしたが、麾下の程元振は代宗皇帝に取り入り策謀をねっていました。
③寶應元年6月
突然、輔國の中書令判元帥行軍及兵部尚書閒廄等使が免ぜられ兵権を失い、博陸郡王に封ぜられました。輔國は激怒しましたが、程元振が判元帥行軍として兵権を奪いどうにもなりません。
寶應元年十月
輔國は自宅で[皇帝から派遣された刺客により]殺害されました。首と片腕が持ち去られていました。
そして判元帥府行軍司馬として兵権を握り、その実権は宰相を凌ぎ、李峴など対立した宰相は罷免されました。
輔國が權を握ると張皇后との関係は悪化していきます。
①上元元年7月
玄宗上皇は京師の民衆の人気がありました。高力士や陳玄禮など多彩な側近が取り巻いていました。肅宗皇帝の疑心を忖度した輔國は兵を率いて上皇を幽閉し、側近達を流罪・引退させました。
上元2年8月
輔國は宦官として最初で最後の兵部尚書となりました。そしてさらに宰相となることを求めます。反対した宰相蕭華は罷免されます。
②寶應元年4月
肅宗皇帝が崩御すると、張皇后は輔國を除こうとして、皇太子适[代宗]に行動を促しますが。适は脅えて逃げます。そのため趙王係を立てようとします。宦官程元振の裏切りによりこれを知った輔國は、皇太子を擁立し張皇后・趙王・兗王を殺しました。代宗皇帝が立ちます。
代宗は輔國を優遇し「尚父」の號を与えました。
輔國は専横となり、代宗に「皇帝は宮中でゆっくりしていればよい、政治は私がやります」と言い放った。
代宗は心中不満であったが、輔國の兵威を畏れてなにもいえなかった。
寶應元年5月
輔國は正任の司空兼中書令として宰相になりました。
輔國は得意満面でしたが、麾下の程元振は代宗皇帝に取り入り策謀をねっていました。
③寶應元年6月
突然、輔國の中書令判元帥行軍及兵部尚書閒廄等使が免ぜられ兵権を失い、博陸郡王に封ぜられました。輔國は激怒しましたが、程元振が判元帥行軍として兵権を奪いどうにもなりません。
寶應元年十月
輔國は自宅で[皇帝から派遣された刺客により]殺害されました。首と片腕が持ち去られていました。