唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

使相 はじめ

2013-01-18 19:54:28 | Weblog
使相とは節度使が宰相職(同中書門下平章事や侍中や中書令)を兼帯する場合であり。名誉職的なものであって実際に宰相の業務を行うわけではない。使相に任ぜられるのは有力藩鎭に付随する場合(幽州・魏博・成徳等)や有力武将に付随する場合(郭子儀・李懷光・李希烈等)、中央宰相職より転出する場合(淮南・西川・河中・山東等)が大半である。しかし中和年間以降の唐末には乱発されて藩鎭の大半が使相になった。
使相の歴史的経過をみると、玄宗の開元年間に張説や王など節度使+平章事がみられるが、この宰相職は実質的で一時的なものであり、宰相が辺境への征討・鎭撫にあたるという意味であった。大暦の王縉・元和の裴度・大中の白敏中などもこれに含まれる。
次ぎに開元~天寶年間の李林甫・牛仙客・楊國忠などの場合は宰相が節度使を遥領する場合で、現地には実権をもった留後職が置かれていた。
実質的な使相は天寶末の安史の乱の副元帥哥舒翰に始まり、郭子儀や李光弼など有力部将の厚遇策として活用されていく、郭子儀や李晟・馬燧・李忠臣など節度使を離れる場合もあるが、その場合も実質的な宰相業務にはつかず、顧問的な役割しか果たさない。
やがて文官にも拡大されることとなり、平章事→兼侍中→兼中書令とランクが高くなっていく。他に三公(司空・司徒・太尉)や三師(太傅・太保・太師)を兼帯する場合もあったが、河東王思禮の例を除いて事前に平章事に任ぜられていた。
観察使・節度使は付帯官として、侍御史・御史中丞(弱小方鎭)御史大夫(主要方鎭)などの憲官を兼ねる場合が多い。そしてその有力な場合は使相となり、御史大夫は付帯しない(少数の例外あり)。これは憲官としての権限の上級版として平章事に引き継がれていると考えられる。
以降、使相を整理していく。まず河北方鎭に見られる例より随時詳述していく。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゆう[巛+邑]州管内経略使 その1 | トップ | 使相と唐會要記事 その1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事