・河東節度使は元和年間までは対回紇や河北三鎭の抑止で重視されていました。
しかしその後河北三鎭は弱体化し、大中年間に回紇帝国が崩壊して重要性は低下していった。
そのため中級文官の赴任先となり、当然官僚腐敗により軍備はいいげんになり、將士の資質・待遇も低下していきました。
・通常將士はその家族とともに城内に混住していました。
・常備軍の能力低下を補うため、団練[民兵]が多く活用されるようになりました。
・代州・雲州など北部は蕃族のほうが多く、特に強敢な沙陀族が勢力を拡大しています。乾符年間にその沙陀族が反したため討伐に苦しみ河東節度は危機を迎えます。
乾符5年正月/5月
●沙陀が乱を起こしたため、節度使竇瀚は都押衙康傳圭に土團二千人を率いさせ代州に派遣することにしましたが、土團は賞賜を求めて暴動を起こし、抑えようとした馬步都虞候鄧虔を殺しました。資金のない竇瀚は富商に錢五萬貫を借りて慰撫しました。
乾符5年6月
朝廷は瀚が非才だとして、軍人の前昭義節度使曹翔を河東節度使とし、左散騎常侍支謨を節度副使としました。
翔は土團の乱者を誅しました。
乾符5年7月
義武、滑州、忠武、昭義、河陽等の諸道軍が沙陀征討のため太原に入り、支謨が先鋒となりました。
●義武軍が乱しましたが翔が制圧しました。
乾符5年8/9月
●沙陀が岢嵐軍を陥し、曹翔は忻州へ出征しましたが頓死し、全軍撤退しました。翔の連れてきた昭義兵は亂し坊市を掠奪したため、坊民はこれを撃破しました。
軍はすでに将軍の私兵となっていること、太原の民は武力をもっていることがわかります。
乾符5年11月
河東宣尉使權知代北行營招討崔季康が河東節度代北行營招討使となりました。
早速沙陀が石州を攻め、崔季康は救援しました。
岢嵐軍は沙陀に付きました。
乾符5年12月
崔季康、昭義李鈞は李克用に洪谷で敗北しました。鈞は戦死し、昭義兵は代州を寇掠しました。
乾符6年正/2月
●崔季康が敗軍をまとめて帰る途中で反乱が起き、季康は逃げ帰りましたが、衙將張鍇、郭朏は太原に入り、季康父子を殺しました。
乾符6年3月
邠寧節度使李侃を河東節度使としました。
乾符6年5月
河東都虞候は每夜、賀公雅部卒を捕らえて族滅しました。
●賀公雅餘黨は三城を大掠師、都虞候張鍇、府城都虞候郭昢の家を焼き討ちしました。
節度使李侃は鍇、昢を捕らえて処刑することにし、賀公雅を馬步都虞候としました。
●刑に臨んで、鍇、昢は「捕盜司が言った事をしただけなのに、処刑されるのか」と訴え、軍士は暴動を起こし、鍇、昢を解放し復職させ、かえって捕盜司元義宗等三十餘家を誅滅しました。
馬步都教練使朱玫等は三城斬斫使となり、賀公雅餘黨を誅しました。
節度使李侃の権威などどこにもありません。
乾符6年6月
侃は病と称して鎭を棄てて去りました。
代州刺史康傳圭を河東行軍司馬としました。
乾符6年8月
元宰相の東都留守李蔚を河東節度觀察兼代北行營招討供軍等使としました。
元宰相としての権威に期待したのです。
乾符6年10/閏10月
李蔚の疾により,供軍副使李邵を權觀察留後,監軍李奉皋を權兵馬留後としましたが、蔚は卒し、都虞侯張鍇、郭昢は太原少尹丁球知觀察留後に推しました。
乾符6年11月
●河東行軍司馬雁門代北制置等使石嶺鎮北兵馬代北軍等使康傳圭を河東節度使代北行營招討使としました。傳圭は代州より兵を率いて入城し、出迎えた都虞候張鍇、郭朏を殺し家を族滅しました。
廣明元年2月
●沙陀が太原に迫り、大谷縣を陥しました。康傳圭は大將伊釗、張彥球、蘇弘軫に防がせましたが敗北しました。
厳酷な傳圭は怒って蘇弘軫を斬りました。張彥球等は乱し、太原を攻め、傳圭を殺しました。監軍使周從寓が慰撫して一応収めました。
廣明元年3月
沙陀の侵攻に対して、河東節度が混乱を極めているため、以前に河東節度を務めた宰相鄭従讜が自ら赴任することになりました。
従讜は幕僚を少壮官僚から選ぶことを許され、「小朝廷」と稱される陣容で赴任しました。
さすがに権謀術数に長けた従讜は温容氣勁,多謀善斷で、問題のある將士はすぐ誅し、使える者は良く待遇しました。乱主張彥球が本来は忠誠であることを見抜き、優遇して兵権を委任し信任しました。ために彥球は死力を尽くして軍務にあたり、河東軍は安定しました。
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