唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

浙東 裘甫/仇甫の乱

2022-11-25 08:55:50 | Weblog
仇甫は貧民の出で、唐末の乱の王仙芝や黄巣と同じく私鹽の販売を生業としていました。
唐の地方行政はすでに破綻していて、浙西・浙東・淮南など唐朝財政の主要収奪地域では
重税や土地の兼併により貧富の差は大きく、貧民の流動化が進んでいました。
宣宗皇帝は治政に励んでいましたが、官僚や宦官達に阻まれてまったく効果を上げていません。

大中13年12月
浙東の賊帥裘甫は官軍を連破して明州象山縣を陥し、剡縣に迫りました。しかし数百人程度のものです。
觀察使鄭祗德は討擊副使劉勍、副將范居植に兵三百を与え、台州軍と共に伐たせました。
河北の兵乱よりは賊も官軍も一桁スケールが小さいのです。

大中14年正月
裘甫は官軍を桐柏觀前で破り、范居植は戦死、劉勍は敗走しました。

甫は千餘人で剡縣を陥し、衆を集めて數千人に達しました。

浙江地方は久しく平安で兵備は廃れ、常備の軍は三百にも満ちません。
祗德は新兵を召募しますが、軍吏は腐敗し貧民、虚弱者で補充しました。
祗德は將沈君縱、副將張公署、望海鎮將李珪に新卒五百をつけて討たせます。

大中14年2月
甫は剡西で官軍を大破し、三將はすべて敗死しました。
これにより山海諸盜や無賴亡命達が一気に集まり三萬に達しました、実に百倍です。
甫は劉暀を参謀とし、劉慶、劉從簡を將とし、自稱天下都知兵馬使。改元して羅平,鑄印曰天平として反しました。

大中14年3月
朝廷は祗德が文官であり乱に対処でないとして、安南都護として実績のある王式を登用しました。
懿宗皇帝は式に方略を問うと「大軍を与えてください、そうすれば必ず平定します」
宦官達は「大軍を出すと金がかかる」
式は「確かに金はかかります、しかし乱が長引くと他の賊も蜂起し財源たる浙江荒れ果ててしまいます。大軍で短期決戦をするほうが安くつきます」と答えた。
皇帝は「大軍を与えるしかないな」とし、精鋭の忠武、義成軍や淮南諸道兵ほ授けました。

裘甫は衢、婺、明、台州を荒らさせたが、婺州や衢州の諸将は防衛し入らせなかった。
明州は民が自衛しました。
賊は台州唐興縣を陥し、甫はみずから越州上虞縣を焚掠し、餘姚縣、明州慈磎縣.奉化縣.台州寧海縣取りました。
また明州象山縣を包囲し、若者を動員して肥大していきました。

裘甫軍では、劉暀が「主力は一気に越州を陥し浙西に出て淮南を侵し、宣歙、江西に派兵し、劉從簡を福建に南下させ、唐朝の財源を覆せば自ら保つことが出来る」と説いたが、
進士王輅は「自衛に努め、緊急時は海に逃れれば大丈夫です」とし決定できなかった。

大中14年4月
式は越州に入り軍紀を厳正にし、密偵を斬り、警戒を厳格にしました。

賊別帥洪師簡、許會能が所部を率いて降ってきたので先鋒としました。

式は吐蕃、回鶻の捕虜で江淮に流されて来たものを取り立てて優遇し騎兵を強化しました。

式軍は沃州寨、新昌寨を抜き、賊將毛應天を破り、唐興に進みました。

大中14年5月
東路軍は賊將孫馬騎を寧海に破り、南路軍は賊將劉暀、毛應天を唐興南谷に大破し、應天を斬りました。

忠武軍、義成軍、昭義軍が来援し台州軍等とともに寧海を攻めました。

南路軍は賊を海游鎮、甬磎洞に大破しました。

將高羅銳は賊別帥劉平天を破りました。

劉暀は王輅等進士數人をすべて通敵したと斬りました。

高羅銳は寧海を取り、七千餘人を得ました。

式は賊が窮して海に逃げる事を怖れ、羅銳軍に沿海を防がせました。

また望海鎮將雲思益、浙西將王克容などの水軍に賊將劉從簡の舟を焼き払わせました。

賊將王皋が降りました。

大中14年6月
東路軍は裘甫を南陳館に大破し、甫は剡縣に逃れました。

式は剡を攻囲し、ついに裘甫、劉暀、劉慶從等百餘人は降り、甫以外は誅されました。

劉從簡のみは大蘭山に奔りました。

大中十四年七月
劉從簡も誅され、乱は平定されました。

大中14年8月
裘甫は京師で誅されました。

王式には檢校右散騎常侍が加えられました。


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