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唐史話三眛
唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。
大中十四年・咸通元年(860年.貞観二年)
2006-11-23 09:15:59
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浙東の仇甫の乱は拡大したが、他地域の呼応はなく、王式[播の子]が大軍を率いて征討し、八月には鎮圧することができた。
雲南蠻は勢力を拡大し、唐への反旗を鮮明にしてきた。
十二月には雲南蠻は、都護李鄠の失政に乗じて安南[ベトナム]を陥落させた[占領はしなかった]。
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大中十三年(859年.貞観元年)
2006-11-22 23:48:58
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三月河東軍の北部を分割して雲州に大同軍を置いた。
このころまでに北邊[大同・朔方・振武・天徳・夏綏など]はすっかり蛮族が定着して外地化していた。
四月恒例の武寧軍乱が起き、節度使康季榮が逐われた。
後任は將士の機嫌取りのうまい田牟となった。
宣宗は仙薬中毒が悪化し八月死亡した。
宣宗に近い宦官王歸長達は、長男鄆王より、宣宗に愛された虁王を擁立しようとしたが、実力宦官王宗實は実力で鄆王[懿宗]を即位させた。
十二月再び南部情勢が悪化し、浙東では賊仇甫が反乱をおこし、雲南蠻が大挙播州へ侵攻してきた。
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大中十二年(858年.天安二年)
2006-11-22 18:26:50
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以下のように南部で連鎖反応的に軍乱が起こった。これらは共謀したものではないが、軍人の劣悪な環境が共通するため次々と発生したものであり、弱体な軍のみの反乱であったため簡単に鎮圧された。宣宗の治政への情熱も地方へはまったく伝わっていなかったわけである。
四月嶺南節度使で軍乱、節度使楊發は殺される。腐敗した軍政を粛正しようとした發への反発より。
五月湖南軍乱、観察使韓は逐われる。將士を冷遇。
六月江西軍乱、観察使鄭憲は逐われる。
七月容管軍乱、経略使宋涯が鎮圧。蛮族と共謀。
八月宣歙軍乱、観察使鄭薫は逐われる。
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大中十一年(857年.天安元年)
2006-11-21 18:57:55
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正月京兆尹韋澳は宰相への任用がなされないことに不満で、河陽節度使を求めて出た。
五月南部の容管で軍乱が起きた。蛮族が蜂起し緊張した中での兵士の不満が爆発したものであった。
七月成徳軍では殺人狂の節度使王紹鼎が折良く死亡し、弟紹懿が嗣ぐことができた。
宣宗もまたこのころより道教に凝りだし始めた。
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大中十年(856年.齊衡三年)
2006-11-21 18:04:53
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五月首都知事にあたる京兆尹に厳正な韋澳が就任した。
さっそく宣宗の義父鄭光の脱税が摘発され、違法行為を繰り返していた勢家は一時粛然となった。
宰相裴休が立太子を求めたが宣宗は拒否した。
これは順序として立つ長男鄆王[懿宗]が凡庸無能であったためで、他の子の成長を待とうという意志のあらわれであった。
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大中九年(855年.齊衡二年)
2006-11-20 20:55:15
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正月成徳節度使王元逵が亡くなり、子の紹鼎が継承した。成徳では王庭湊の家系が後梁まで継承されていった。
七月南部の軍乱の端緒となる浙東での軍乱が起こり、観察使李訥が追放された。
これは中央への餘や官僚の収奪のため、緊急性が低い江南諸軍の兵士達の待遇切り下げが続いたためである。
淮南節度使杜悰は饑饉にもかかわらず遊宴を重ねていたため、七月左遷された。
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大中八年(854年.齊衡元年)
2006-11-20 18:08:10
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宣宗は狩猟のたびに民家に立ちより、地方官の業績を聞き人事を行っていた。善政を敷きたいいう意欲は強かったが、すでに体制は腐敗してどうしようもなかった。
宣宗が実施した減税は官僚と宦官によって食いつぶされ、民衆は重税にあえぐ状況がつづいていた。
また甘露の変関係者の特赦を願望したが、宦官の圧力を畏れて実施できなかった。
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大中七年(853年.仁寿三年)
2006-11-19 10:28:44
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宣宗の義父鄭光は、平盧や河中の節度使を歴任したが、治績はなく取り込むことには貪欲であった。そしてさらに娘の太后を通じて貧を訴え藩鎭に赴任することを求めた。宣宗は民の迷惑を考えて金帛を与え藩鎭には赴任させなかった。
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大中六年(852年.仁寿二年)
2006-11-19 09:22:55
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二月蓬果山賊は文官劉潼が招撫して下山させたが、武官王贄弘やその監軍達はこれを襲い皆殺しにした。
六月河東節度使李業が、降伏してきた蛮族をみだりに殺害させたため北邊に騒動がおこった。責任追及の声はおおきかったが。宣宗は義成に転任させただけであった。
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大中五年(851年.仁寿元年)
2006-11-18 13:30:40
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二月宰相白敏中はみずから党項討伐にあたった。これは淮西討伐の裴度にならったものである。
四月~八月党項は表面上帰服して乱は治まった。
十月吐蕃に没していた河西の張義潮が瓜沙伊肅鄯甘河西蘭岷廓十一州をあげて帰服してきた。宣宗は喜び、張義潮を歸義軍節度使としてその統治をみとめた。これにより吐蕃の失地は戦うことなく形式的にはほぼ回復された。
同じく十月蓬果州にまたがる山賊の討伐が始まった。
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大中四年(850年.嘉祥三年)
2006-11-18 09:07:27
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八月幽州で軍乱が起き、節度使張直方(仲武の子)が追放され、張允伸が自立した。幽州節度使は奚や契丹などに面して、常に緊張した状態であり、若年の節度使では担当しきれず、諸将による簒奪が続く所であった。
十一月より党項[タングート、後の西夏]が現地の藩鎭の失政などから反乱をおこし対策に逐われることとなった。
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大中三年(849年.嘉祥二年)
2006-11-17 19:57:54
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二月吐蕃の内紛により、安史の乱に乗じて吐蕃が侵略した隴右の地が帰服してきた。
五月悪名高い武寧軍が軍乱を起こし、節度使李廓を追放した。
十月~十二月にかけて剣南・山西地域の吐蕃に没していた土地が帰服してきた。
十二月李裕が配流先で没した。
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大中二年(848年.嘉祥元年)
2006-11-17 18:04:02
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李裕派の左遷が相次いだ。宣宗は父憲宗の時代を懐かしみ、その公卿の子孫を多く登用した。
宣宗は郭太后[穆宗の母]に対しては、憲宗暗殺に同調した疑いをもち極めて冷たかった。六月太后は急死したが、投身自殺と取りざたされた。
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大中元年(847年.承和十四年)
2006-11-16 18:56:20
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閏月廃仏令が撤回され、諸寺の復興が認められた。
五月奚・吐蕃・回鶻などが北邊を乱したが大勢に影響はなかった。
十二月李裕はその些細な失態をあけつらわれて左遷された。
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會昌六年(846年.承和十三年)
2006-11-16 17:15:43
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三月道教の仙薬に中毒した武宗は急死し、宦官馬元贄は他の候補を廃して予想外である憲宗の子光王[宣宗]を即位させた。
宣宗は王時代は無能と思われていたが、即位すると才識を開花させ小太宗と呼ばれる名君となった。
四月専権を極めた李裕が突然罷免され、政敵白敏中など牛派が登用されるようになった。
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