唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

湖南都団練観察使 武安軍節度使 その2

2012-04-12 10:38:55 | Weblog
・その後湖南は中級文官の赴任地となっていった。
・元和4年[809年]隣鎭黔中の漵州蠻首張伯靖が叛し影響が及んできたため、
元和7年[812年]8観察使柳公綽はこれを慰撫して降らせた。
・元和末以降、宰相等の左遷地としても利用され、韋貫之・崔羣・袁滋・楊嗣復・
李回などがみられる。
・大中末には南部地域に軍乱が頻発した。文官官僚の収奪が限界を超え待遇が悪化
した牙軍が不満を爆発させたためである。湖南においても大中12年[858年]都將石載順等が
觀察使韓悰を逐った。しかし弱体な反乱はすぐ鎮圧された。
・咸通年間に入ると雲南蠻の安南・邕管への侵攻が強まり、湖南では緊張が高まり、
諸藩鎭からの派遣軍が駐屯するようになった。
・咸通9年[868年]徐州より派遣されていた龐勳達が勝手に歸鎭し大乱を起こした。
・乾符6年[879年]黄巣軍が廣州を占拠し、宰相王鐸はみずからこれを討伐しようとして
荊南に鎭した。軍の指揮は名将李晟の曾孫である泰寧節度使係を湖南観察使として委任した。
・しかし係は名前ばかりで無能であり、10月黄巣軍の急襲にあって軍を棄てて逃げた。
・その後湖南各州は次々と賊に占領されていった。
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