唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天平軍節度使 鄆曹濮節度使 その1

2012-04-09 09:19:50 | Weblog
・鄆州に使府が置かれたのは貞元4年[788年]淄青平盧節度使李納が移治してきたことに始まる。
実際は大暦12年[777年]から拡大した淄青藩鎭の使府になっていたが、正式に唐朝が認めたこと
による。鄆州は黄河を隔てて河北の諸鎭や、西の唐朝と対峙する要地である。
・元和14年[819年]李師道が誅され淄青平盧節度使が州・兗州・鄆州の三鎭に解体されると、
鄆曹濮節度使が置かれ馬總が就任した。
・翌元和15年[820年]には天平軍の號が与えられた。
・總の後は名将鳥重胤の赴任地となった。太和元年[827年]横海李同捷が反すると、
征討を命ぜられたが11月に卒した。
・その後は高級文官や神策系武官の赴任地となったが、牙軍は弱体であり軍乱などはみられなかった。
・咸通9年[868年]武寧で龐勳の乱が起こると鎮定を命ぜられたがはかばかしい戦果はあがらなかった。
・咸通10年[869年]対雲南蠻戦の勇将高駢が赴任して、乾符元年[874年]には牙軍を率いて
西川への雲南蠻の征討にむかった。
・ところが乾符2年[875年]兗鄆徐州の地では王仙芝・黄巣が蜂起し曹・濮州を陥し、
征討にむかった節度使薛崇は敗北した。
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