唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

劍南節度使 西川節度使 その4

2012-04-21 13:54:02 | Weblog
・建中四年[783年]宗皇帝が奉天で籠城し、興元府に逃がれた時、節度使張延賞は財政的支援を惜しまなかった。
そのため宰相に任用されたのだが、功將李晟との対立があり一度は解任されることも起こった。
・貞元元年[785年]後任には朱の攻撃から隴州を守り抜いた韋皐が任命された。皐は南詔を吐蕃から切り離し、
西山の諸蕃を味方につけることに成功し、永貞元年[805年]に卒するまでの長い任期中対吐蕃戦に勝利を重ねて
、失地も回復していった。
・この功績により皐は元老格となったが反面西川の租税を独占し、幕僚を地方官に任命するなど半独立体制を
築いていった。
・皐が卒すると、幕僚達は半独立体制の維持を図り、劉闢を後任に擁立しようとした。唐朝は西川回復のため
宰相袁滋を送り込んだが入れず、即位したての憲宗皇帝は闢の節度使任命を一旦は承認した。
ところが闢は東川をも併呑しようとしたため、宰相杜鴻漸の強硬策にのった皇帝は、
元和元年[806年]正月神策軍高崇文を征討使として送り込んだ。
・新進の武将である崇文は直ちに進発し、三月には東川を回復し、九月には成都を陥し闢を誅した。