唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天平軍節度使 その2

2012-04-10 21:47:16 | Weblog
・乾符6年[5年とも言う.879年]薛崇のあとの節度使張裼が卒すると、將崔君裕が自立したが、
淄州刺史曹全晸により誅された。
・黄巣は廣州においてまず嶺東節度使を求めたが暑熱と疾病に辟易し、ついで天平節度使を求めたが唐朝は認めなかった。
・中和元年[881年]曹全晸は黄巣軍と戦い敗死し、兄の子存實が嗣いだ。
・中和二年[882年]勢力拡大を狙う魏博韓簡軍は河陽諸葛爽を逐い河を渡り、天平を攻撃した、、
10月存實は迎撃したが敗死し、簡は鄆州を包囲したが將朱瑄は屈せず抗戦した。
・中和三年[883年]1月簡は鄆州を抜けず帰還しようとしたが、諸葛爽は河陽を奪還し武陟に迎撃してこれを破った。
敗走した簡は將樂行達に殺された。
・瑄は正式に節度使となり、光啓二年[886年]には甥の瑾が泰寧節度使を乗っ取り共同して勢力を拡大した。
・光啓三年[887年]には宣武朱全忠をたすけて秦宗權を破ったが、全忠は反って天平・泰寧の領域を浸食してきた。
・連年のように全忠軍は来攻し、乾寧元年[894年]には大敗して追いつめられ、河東李克用の支援を受けたが、
乾寧4年[897年]瑄は捕らえられ殺された。
・その後宣武・義成・河中と併せて天平は全忠の直轄地となっていった。